補章―3 ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初期
この章の目次
16世紀後半になると、かつてハンザ諸都市が支配していたバルト海方面の地政学的状況も転換していた。
バルト海や北海をつうじて東欧やスカンディナヴィア、北ドイツと北西ヨーロッパを結ぶ海運と貿易は、いまやユトレヒト同盟の商人たちが牛耳っていた。積載能力と速度にすぐれ、強固な武装をほどこしたネーデルラントの船舶と艦隊が、バルト海・北海から大西洋、地中海にいたるあらゆる航路で優位に立っていた。安価な輸送費・船賃、効率のよい倉庫管理、そして艦隊のすぐれた戦闘能力が、ユトレヒト同盟の海運業と貿易商人の優越の土台になっていた。
プロイセンやポーランドの領主所領から穀物や木材を買い叩き、スウェーデンの銅と鉄の採掘と精錬を支配するのは、いまやハンザではなくネーデルラントの商人グループだった。彼らは、東方での商品購入と販売との収支尻の決済(支払い)に、エスパーニャから受け取った貴金属を充てた。東欧に毛織物や金属製品を運び、農業が荒廃したイベリアやイタリアに穀物を輸送するのも、圧倒的にユトレヒト同盟の船団だった。
そして、ハンザに結集していた多数の都市は分断され、近隣の君侯や領主に服属し、あるいは新たに商業覇権を握った地域や都市に従属することになった。かつてはリューベックに従属していたダンツィヒやケーニヒスベルクなどの諸都市は、プロイセン王室や貴族の政治的・軍事的支配を受けながら、経済的にはアムステルダムの指揮を仰ぐことになった。ハンブルクやブレーメンは、いまやイングランド王権ないしロンドン商人の影響を強く受けるようになっていった。
16世紀末葉からのヨーロッパ世界経済におけるホラントの最優位は、多様な権力の対抗関係のなかに生じた相対的な状況であって、不動の地位ではなかった。政治的・軍事的な凝集性がそれほど強化されなかったユトレヒト同盟の内部では、連邦国家装置に対する個別都市の優位が歴然としていた。連邦諸都市の商業資本総体としての利害を統合し、その優位を長期的に確保しようという戦略の担い手もいなかった。
ネーデルラントの南部(ベルギウム)は、依然としてハプスブルク王権の統治下に置かれていた。エスパーニャ王権は深刻な財政危機に見舞われながらも、いまだにヨーロッパ最大の領地を支配する王朝の威容を誇っていた。フランス王権もネーデルラントへの浸透と侵攻をねらっていた。17世紀になると、海峡の対岸では、イングランド王権とロンドンの商業資本がネーデルラントの足元を掘り崩そうと躍起になっていた。
とはいえ、17世紀半ばになると、ハプスブルク王朝とこれに対するイングランド王権、ユトレヒト同盟、フランス王権の敵対という対抗軸は後退した。エスパーニャ王国の衰退が目立ち始めたからだ。
この変化を一気に推し進めたのが、ドイツの三十年戦争だった。多数の弱小君侯・領主たちが神聖ローマ帝国の観念(残骸)にすがりついてすくみ合っていたのが、ドイツ・中欧だった。そこでは、オーストリア王権がゲルマニアでの優位を永続化しようと画策し、これにプロテスタント派諸侯が対抗したことがきっかけとなって戦乱が始まった。
戦乱にはエスパーニャ王権とフランス王権との敵対も絡んでいく。エスパーニャ王権がオーストリア王権とカトリック派を支援して戦乱に介入し、ネーデルラントの支配地の回復をもくろんだ。これに対して、プロテスタント派をフランス王権が援護した。デンマルク王権も参戦し、バルト海からはスウェーデン王が侵入し、その後もフランス王権の財政支援を受けながらドイツやボヘミアに転戦した。イングランドも、エスパーニャの艦船と港湾都市への艦隊による襲撃を仕かけた。そのため、ふたたび戦乱がヨーロッパ全域に広がった。この戦争の結果、はっきりしたのはエスパーニャ王権の没落だった。
その後もフランスでは、ブルボン王権は諸地方を完全に征圧することはできなかった。けれども、宮廷に結集した商人出身の貴族・高官たちが企図した集権化政策と重商主義的政策が功を奏して中央権力を拡張し、地方の分裂傾向をどうにか封じ込めるようになっていた。
イングランドでは革命をつうじて自国の商業資本の利害を強く自覚した国民国家ができあがった。イングランドは航海諸法によって、海運でのユトレヒト同盟の優位を掘り崩そうとした。やがて、軍事的に弱小なネーデルラント連邦は、フランス王権の圧力を受けて、イングランドとの同盟を選ぶことになった。こうして、ヨーロッパの政治的・軍事的な側面での対抗軸は、イングランド王権・ネーデルラント対フランス王権ということになった。
だが、通商的には、イングランドとホラントはしばしば激しく敵対していた。反面、金融的には強く結びついていた。つまり、商業資本はまだそれほど強くナショナルな結合を組織していたわけではなく、部門によって域外資本との関係は異なっていたということだ。そして、フランス王権の軍事的圧迫を受けていたネーデルラントの商業資本は、フランスの西部や地中海地方を商業的=経済的に食い物にしていた。諸国家のあいだの政治的=軍事的力関係と経済的力量の優劣は一致しなかったし、経済関係は国境によって仕切られてもいなかった。
フランス王権の軍事力はそれ自体としては巨大だったが、広大なフランス全域、ことに沿岸地方の経済を堅固に防備するにはほど遠い状態だった。しかも、域内はいまだに多数の関税圏に分割されていて、中央政府が地方への課税と徴税を統制することはできなかった。パリはヨーロッパでは飛び抜けて巨大な都市だったが、商業資本の権力拠点としては、広大なフランス全域を支配できるほどに強固ではなかった。
それに比べて、ロンドンは革命政府や新たな王権の支援を受けて、イングランド全域への統制を強めていた。域内の関税障壁も早くから解消されていた。
以上が、17世紀までのヨーロッパの地政学的状態の概要だ。
次の補章では、いままで述べてきたきたことがらを〈国民国家の形成〉という視座から吟味してみたい。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望