補章―3 ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初期
この章の目次
以上は北イタリアでの話だ。イタリア半島南部とシチリアは、経済的には北部の諸都市の通商権力によって辺境化され、君侯権力が多数の地方権力に分解していくことになった。14、15世紀以降、ナーポリ王国とシチリア王国は経済的には北イタリア諸都市に従属しながら、軍事的・政治的にはフランス王権とエスパーニャ王権とのあいだの勢力争いに巻き込まれていた。
13世紀からアラゴン王権はバルセロナ商人と結びついて地中海に勢力を伸ばしてサルデーニャを支配し、やがてシチリア・ナーポリの王位をも手に入れた。15世紀後半にはアラゴンとカスティーリャは連合してエスパーニャ王国をつくった。こうして、エスパーニャ王がシチリアとナーポリを支配することになった。この動きにフランス王権が敵対するのは当然の流れだった。
しかし、南イタリアでは王の権威は衰弱していて、王の直轄領における課税権や収益権が地方領主層によって切り崩されていたため、王室財政の収入が乏しくなっていた。統治にあたる王権が疲弊するという構造的傾向にあった。
ところが北イタリアにしても、経済的には高度な集中と集積を達成したとはいえ、多数の小さな都市国家が分立対抗し合っていて、軍事的・政治的には分裂状態だった。ヴェネツィア、ジェーノヴァ、フィレンツェ、ミラーノなどの有力諸都市のまわりには多数の弱小都市がひしめいていた。それらは、「勢力均衡」の原理で合従連衡、離合集散をくり返して、この地域により大きな国家ができるのを妨げていた。
ところが、すぐ隣のオーストリアとエスパーニャをハプスブルク家の王室が統治し、フランスでもヴァロワ王権が集権化を進め、それまでに比べてけた違いの規模の軍隊を組織してきていた。2つの王権はいたるところで互いに角を突き合わせ、相手に対して有利な地歩を得るために、防備の甘い近隣地帯への侵入や膨張をもくろんでいた。その「標的」になったのが富の集積地、北イタリアだった。
北イタリアをめぐる闘争ではハプスブルク家が終始優位を占めていた。だが、16世紀に入るとまもなく、ヨーロッパ全域で「宗教改革」「宗派戦争」の騒乱が吹き荒れることになった。その背景には、ローマ教会をとりまく政治的・軍事的環境の構造変化があった。
15世紀に各地で君主制領域国家が勃興し始めると、これまでよりも明白な軍事的・政治的権力の境界が求められるようになった。属人的な法原理で折り重なり入り組んでいた権力や権限が、地理的境界によって区分され、単一の権力の中心から再組織されるようになり始めたのだ。皮肉なことに、このような法原理を普及させたのは、ローマ法の原理や知識を保有していたローマ教会の知識人だった。
ローマ教会の「普遍的権威」がこうした世俗的権力によって分断されるようになった。多くの君主制領域国家は教会の権威から独立した政治体を形成し、さらなる発展のために、域内や周囲の教会や宗教組織を統合し、利用しようとした。君侯たちは教皇からの破門を恐れなくなり、場合によっては――フランスやエスパーニャの王権――のように教皇を自らの利害のために利用したり、域内の教会組織を王権による統治装置の一環として取り込んだりするようになった。エスパーニャ王権はイエズス会を国家装置の一部門として運用し、イングランド王は教会組織の首長となった。スウェーデン、デンマルクまたしかりだった。
おりしも、教皇庁とローマ教会を取り巻く政治的・軍事的環境が悪化したところに、教会役員たちの横暴と腐敗が目立つようになり、修道院や教会内部の改革者や「異端派」から批判されるようになっていた。教会からの自立やその支配をもくろむ君侯や都市は、この状況をしたたかに利用することになった。こうして、秩序の組み換えをめぐる世俗の権力闘争は、教会組織の再編と結びついて宗教紛争の形態をまとうようになった。
イングランドでは王権が財政危機に対応して、教会や修道院の所領と財産を没収し始めた。王権の利害に沿って教会を運営するために教会組織も再編され、王を首長とし、王権国家装置の一環として機能するアングリカン教会がつくられた。以前は教皇庁に納められていた巨額の賦課や税はいまや域内にとどまり、王室と新たな教会組織、そして王権派貴族たちの新たな収入源になった。
ドイツでは多数の弱小領主のあいだの紛争と宗派問題が絡み合い、さらにこれに農民の抵抗闘争が結びついたため、各地に闘争が拡大した。フランスでは、ハプスブルク家との戦争で王室財政が疲弊し王権が弱体化したため、ふたたび諸侯・貴族が分裂し派閥闘争が始まったが、これにも宗派問題が絡みついていた。この戦乱は「ユグノー戦争」と呼ばれる。
そのなかでいよいよヴァロワ王権は衰微していった。王の権威が衰弱した宮廷ではしばらくのあいだ、ギュイーズ公を中心とするカトリック守旧派が権力を壟断することになった。この宮廷権力は、スコットランドをめぐってイングランド王権と争った。フランス北東部の諸都市では民衆蜂起がカトリック派の反動と結びつき、都市統治の麻痺を引き起こした。他方で、王権による統制から離脱をねらう南フランスの貴族と諸都市はプロテスタント派にくみした。フランス王国はまたもや分裂と紛争に陥ることになった。
カトリシズムの守護者を任じるハプスブルク王朝も、フランスとの戦争で財政が破綻していた。それでも、イタリア戦線を維持し、フランスの宗教紛争に介入し、そのための財源をネーデルラントでの課税権の強化によってひねり出そうとしていた。しかし、課税の強化とは税を取り立てる権力の拡大であり、すなわち一定の集権化であり、それに抵抗する地方(在地)権力の切り崩しや抑圧を意味した。つまるところ、対立と敵対関係は増幅されていった。
都市民衆のあいだでは、抑圧的なハプスブルク王権への不満や憤懣がプロテスタント派の増加につながった。こうして、フランデルンでも財政問題が発端となって、在地貴族や都市団体・有力商人の反抗と反乱が生じ、それが民衆抵抗や宗教紛争と絡みついてしまった。これに対するハプスブルク家当局の鎮圧作戦は当初成功したかに見えたが、反乱はネーデルラント全域に広がってしまった。北部諸州はユトレヒト同盟を結成して分離独立闘争を展開し、ハプスブルク王朝の支配に大きな風穴を開けることになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望