第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

ⅰ 冒険航海事業としての創設と初期の航海事業(1600-1650年)

  1599年の年末に上申されたエリザベス女王への特許請願状では、会社の設立目的は

航海を盛んにし、貿易を増進するために、・・・・・・相当規模の船団を整え、東インド諸島に向けて航路と通商経路を開拓するために

と記述されていた。エリザベスは、東インド会社に対して15年間の有効期限をもつ特許――喜望峰以東の貿易の独占権――を承認した。こうして翌1600年、貿易路と航路を開拓する事業団体としてのロンドン東インド会社(栄光東インド会社)が誕生した。東インド方面との貿易に関する特許状=独占権には、当時の特許会社としては普通のことだったが、貿易と航海事業の組織化のために王権のエイジェントとして活動するうえで必要な政治的ならびに行政的・司法的・軍事的権限が含まれていた。
  さて、イングランド商人にとってインド洋方面への冒険的航海事業は、成功した場合の利益は巨額だが、リスクとコストがあまりに大きくて、個々の商人の単独事業としては企図することができなかった。そこで彼らは、中程度の富裕層に属す個人として出資可能な金額――100ポンド前後から1000ポンドくらい――で多数の出資者を募集し共同事業として組織することを計画した。この計画に投資したのは、数の上では、上流のジェントルマンよりも、半ば賭博を楽しむという趣の強いロンドンの工房の親方職人や小売商人が多かったという。投資者は総勢211人だった。

  計画では、彼らから集めた資金を元手に4隻の船を購入し、東洋で売るつもりの商品を調達して船に積み、航海を終えたら積荷を売りさばいて得た利益を出資額に応じて分配することになっていた〔cf. Gardner〕。のちにこの仕組みは、航海ごとに事業を清算して資本金と配当を返却するのをやめて、出資金は継続的な経営組織の資本金として積み立てておいて利益だけを配当する方法に転換されることになった。この段階になると、ロンドンの有力商人(貿易業者と金融業者)や造船業者など、支配的な商業資本のメンバーが、会社の資本金に占める出資比率から見て主要な株主になっていた。
  この貿易事業は、王室の独占となっている東インド貿易への参入――貿易活動は特権の実務的行使となる――について王から特許状を受け、積荷の販売額の一定の比率を関税として王室に納入するという形で、航海事業の収益の分配に王権を参加させるものであった。王権の事業であるから、船舶のマストにはイングランド王室の旗を掲げ、航海者たちは王の外交使節としての法的資格を与えられ、目的地の統治者たち――インドの統治者ムガール皇帝ほか6人の君侯――にあてた王の親書を携えていた。この親書は、統治者たちへのイングランド王の敬意を表すとともに、彼らに通商関係の承認許可を要請する内容だった。

  ロンドンでは、船舶の選定購入や武装などについて検討し人員を募集する委員会が組織され、この委員会が航海の準備を実務的に進めた。第1回航海事業で最大の船はレッドドラゴンで、重量は600トン、購入費は3700ポンド、乗組員は200人だった。ほかの3隻の商船は、ヘクター、スーザン、アセンションで、これらに補給船ゲストが加わっていた。水夫たちには2か月分の給料(56シリング×2回分)が前払いされた。彼らへの支給品には、弾丸とマスケット銃、剣、寝具や什器が含まれていた。船団=艦隊の総司令官はジェイムズ・ランカスターで、彼にはエリザベスから、400人の乗組員と士官に規律を遵守させ裁判と処罰をおこなう権限、また必要に応じて戦時法規を発動する権限が与えられた。また、航海途上および目的地での商行為を監視統制するため、会社の代表4人が各商船に1人ずつ乗っていた〔cf. Gardner〕
  1601年1月、船団はテムズ河を下って外海に向かった。当時、イングランドはエスパーニャ・ポルトゥガル連合と交戦状態だったので、この航海では船団はポルトゥガルの勢力圏であるインド西南部の海岸には寄らないで、インド洋の東端、東インド諸島を目的地と定めていた〔cf. Gardner〕。そこは香料諸島とも呼ばれ、スマトラ島とジャヴァ島からなる大スンダ諸島、ボルネオ島、セレベス諸島、モルッカ諸島からなっている。この地域では、1595年からこのかた、ネーデルラント商人たち――のちに連合東インド会社 VOC に統合される――が比較的大規模な通商をおこなっていた。
  出航後1年半で船団はスマトラ北西端のアチンに到着したが、航海中には生野菜や果物が摂取できなかったために、乗組員の大半がひどい壊血病にかかり、多数が病気や事故で死亡していたという。寄航後に現地の王侯とは友好関係を築き貿易の自由権も獲得できたけれども、イングランドからの積荷のほとんどは――現地人の需要にはまったく合わなかったので――現地での貿易には用をなさなかった。しかも胡椒・香辛料の購入価格は高くて、手持ちの資金ではごく少量しか買い付けられなかった。
  そこで、船団はイングランド商船団の特技である私掠(海賊)行為を企て、ポルトゥガルの大型ガレオン船を襲って財貨を分捕った。その作戦直後、ランカスターは掠奪の成果の一部を積載した1隻をイングランドに帰航させた。残りの艦船はジャヴァ島バタヴィアのネーデルラントの基地で、掠奪した財貨とホラント船舶の積荷とを交換した。その後、帰路についた船団は1603年9月にロンドンに到着した。だが、この間の航海で182人の乗組員を失っていた〔cf. Gardner〕

  冒険航海は経済的には大成功で、王に関税917ポンドを納め、諸経費や水先案内人への報酬を支払ったのちにも、多額の利益が残った。積荷のなかでも胡椒は、重量およそ500トンで巨額の利益を生んだという。航海のあいだにエリザベスは没し、ジェイムズが王位を継承していた。
  2回目の航海事業も成功し、6万ポンドの出資金に対して利益100%を配当した。3回目は5万300ポンドの出資金に対して配当された利益は230%だったという。17世紀初頭またたくまに、ロンドン東インド会社はイングランド経済・通商活動のなかで重要な地位を獲得した。会社は1609年、さらに広範で強力な権限をもつ特許を王に申請した。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社