第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

3 東インド会社の通商拠点建設と商業権益の獲得

  17世紀をつうじて東インド会社はインド各地に通商拠点を獲得していった。会社の商館は1612年スーラト、1639年マドラース、1668年ボンベイ、1690年カルカッタの3地点に建設された。このほかにも、会社は1647年までに会社はインドに23の駐在地を確保し、60人の従業員を派遣していた。通商拠点はまた軍事的拠点でもあった。従業員のほかにも多数のブリテン人商人がインド亜大陸各地で活動していた。

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

   BEIC は、すでにムガールの中央宮廷から離脱していたカーナティクの首長から1639年にコロマンデル海岸の一部を割譲され、翌年そこに聖ジョージ城塞を築き、貿易拠点を建設し始めた。城塞の周囲には居留地ができ都市集落が形成された。これがマドラース市の発足だった。1670年には、この市には300人のブリテン人とその軍事力によって保護されたポルトゥガル人約3000人が居住していた〔cf. Gardner〕
  会社は、イングランド王権から特権を与えられ、名目上は中央政府ないし議会=庶民院の統制を受け入れることになっていた。しかし、実質的には王権政府から完全に独立した団体だった。ところが、マドラースを含めてアジアの各拠点に派遣された社員(幹部)たちもまた、それぞれにロンドンの会社本部からほぼ全面的に独立して――会社の軍や権威は巧みに利用しながら――好き勝手に自らの利権を追求していた。というよりも、本部の統制は遠隔地インドまでおよばなかった。そして、社員たちの勝手な利権争奪活動が会社の活力を生んでいた。

  だが1665年には、聖ジョージ要塞の内部で派閥闘争から内乱が発生した。そのため、ロンドンの本部は艦隊と陸兵を派遣し、常駐させることになった〔cf. Gardner〕が、現地に派遣した軍事力に対して遠隔地にある本部からの統制は有効に機能しないのは、当然だった。艦隊と陸兵隊は、 BEIC のほかの部門の従業員と同様に、インドでの人脈やそれぞれの利害と結びついて活動することになった。それでも彼らの心性においては、イングランドへの帰属意識やイングランド人としてのアイデンティティなるものが強固に保たれていた。
  このような意味で、艦隊と常備兵力を備えるにいたった会社の要塞は、ブリテン商業資本が南インドに軍事的・政治的影響力を拡大していくための最初の主要な拠点となった。会社の現地幹部たちは、ロンドン本部、さらには政府から独立して、現地の支配者たちと協定を結びあるいは結託して貿易を組織し、利権の分配に参加するようになった。彼らが蓄えた利得は為替などをつうじて本国に送られ、その貨幣資本循環に入り込んでいった。その意味では、 BEIC としての彼らの活動は、イングランド資本の蓄積や権力の増大を促進する方向で作用していたのだ。

  さて、会社は1667年にはボンベイ島を取得し、会社が支配する「領土 territory 」は拡大した。この島は、16世紀の前半からポルトゥガルが領有していたが、1561年にイングランド王チャールズ2世がポルトゥガル王女と結婚したときに持参金としてイングランドに譲渡されたものだった。会社は、王室に5万ポンドを――当時としては低利の――年利6%で融資した見返りに、この島を借り受けたのだ。会社にとってボンベイ島は、スーラトと並んで、インド西部の重要な拠点となった。
  とはいえ、会社は経済的に魅力のあるベンガル湾(インド東部)に強い関心を向けていた。というのは、インドの中央部、北部、東部の物資を輸送する最も主要な経路はガンディス河水系で、ガンディスとその支流には集散地や取引所が多く、ベンガル地方一帯にある河口デルタには運河が縦横に走り、多数の良港があったからだ。インド北部の内陸部の商業と製造業は、ガンディス河水系の舟運に大きく依存していたのだ。
  ベンガル地方では太守がムガール皇帝に臣従を誓約していて、名目上は皇帝の支配地だったから、商業活動や貿易拠点の建設、居住などの権利について皇帝ならびにダッカの太守から許可を得なければならなかった。1633年から会社は、何とかこの地帯での交易活動を始めようと努力してきたが、皇帝との交渉はなかなか進まなかった。ようやく1640年になって、皇帝の譲歩を得て、フーグリ(ハグリ)に商館を建設することができた〔cf. Gardner〕
  しかし、外来者であるイングランド商人は、現地住民にとって魅力的な交換商品を保有しておらず、また現地の商慣行や統治慣行に適応することができず、現地商人との取引関係を有効に組織化できないばかりか、現地の太守や地方領主とも紛争を繰り返すことになった。そうなれば、武力に物を言わせて商業権益を入手するのが、会社の「得意技」だった。
  ついに1685年、会社はムガール皇帝とダッカ太守に宣戦し、翌年、遠征隊を派遣した(アングロ=ムガール戦争)。ところが、ダッカ太守は有能な武将であったから、イングランド軍を圧倒して、ついに会社はベンガルから全面的に撤退せざるをえなくなった。しかも、西部のスーラトでもマラータの反乱が発生し、その征圧のために派遣されたムガール皇帝の遠征軍によって占領されてしまった。
  しかし、おりしもそのとき、皇帝アウランゼーブはマラータをはじめとして各地での反乱や紛争に手を焼いていたため、アラビア海の巡礼ルートの安全を確保するために、制海権をもつイングランドに講和を求めてきた。皇帝は、ダッカの太守を説得してベンガル地方への会社の居留を認めさせた〔cf. Gardner〕。会社は1690年、カリカト(カルカッタ)にウィリアム城塞を築いて、通商と軍事の拠点とすることになった。こうして17世紀末までに、会社はスーラト、ボンベイ、カルカッタの3地点に通商基地を確保することができた。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社