第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

2 インド亜大陸の統治構造と社会(1600-1700年)

  さて、インド亜大陸――今日のインド、パキスタン、アフガニスタン南部――では16世紀前半にムガール王朝が帝国支配の基盤を固めた。この地域では、イスラムのアクバル皇帝の軍事力とパーソナルな権威によって軍事的・政治的秩序において帝国としての統合が保たれていたが、インドは多数の地方君侯や有力者、多様な共同体、部族、身分、そして多数の宗教と異なる慣行が入り乱れた複雑な社会をなしていた。つまり、宗教的・文化的・言語的な大きな差異の並存を前提=許容した秩序が成り立っていた。信者の数から見ると、全般的にはヒンドゥが有力で、都市部の多くではイスラム教が広がり、パンジャブ地方ではシーク教が影響力をもっていた。教育や知的活動は宗教によって導かれていた〔cf. Gardner〕
  ムガール帝国の領土は、皇帝直轄地と皇帝の宗主権を受容する従属的諸侯国などに分かれていた。各侯国の君侯=太守たちもまた、地方ごとに権力を行使して皇帝に劣らない贅沢な生活を営んでおり、税や貢納によって集積された莫大な富のほとんどはふたたび農村に還元されることはなかった。インドの民衆は、ブリテンの権力がおよぶ以前から、過酷な収奪と搾取を受けていた。

  皇帝の支配、さらには太守、君侯の支配は、地方の支配層・有力者層の統治に依拠していた。とりわけ皇帝や太守の財政収入の確保は、半ば自立的な地方の支配者や有力者層による徴税に依存していた。それゆえ、皇帝の権威の後退などで地方の自立性が高まれば、地方支配層が徴収した税の上納率が低下し、さらには上納そのものがおこなわれなくなることもあった。皇帝の権威からの独立や反乱を起こした地方に対して、皇帝は自らの軍を率いて遠征し、軍事的に屈服させたり、あるいは力関係の優位を示したりして、秩序や課税権を回復しなければならなかった。したがって、デカン地方や南部などの遠隔地では皇帝の権威はかなり希薄化していた。
  陸上交通が不便なために内陸交易は不活発であったが、大河川の流域や海岸部では活発な商取引が発達していた。インド人商人は古くから、インド洋航海をつうじてアフリカ大陸やアラビア半島、ペルシアとの遠距離貿易を組織していた。ことにムスリム皇帝の権威のもとで、アラビアやペルシアへの巡礼や通商が活発におこなわれていた。また、コロマンデル海岸一帯の諸地方は、品質の高い綿織物を生産し、東南アジア諸島と密接な貿易関係を営んでいた。ことに香料諸島では、インド綿布は高く評価され、胡椒や香辛料と有利な比率で交換されていた。
  ヨーロッパに結びつくような域外との貿易としては、沿岸部の狭い居留地にいるポルトゥガル人によって、綿、インディゴ、硝石、香辛料などが取り引きされていた。このほか、金、銀、象牙、アヘンなどは、アフガンなどの北方からラクダの背に積まれ、あるいは東方から船荷によるかして、ベンガルに到達し、河川舟運によってさらに奥地まで運ばれたという〔cf. Gardner〕

  さて、サティーシュ・チャンドラによれば、ムガールの統治体制は、元来、皇帝政府がさしあたって入手可能な剰余で宮廷維持費と行政コストをまかない、権威を拡張するための各種の戦争のコスト――軍事力の担い手であるマンサブダール=貴族への報酬――を手当てした。そのために、支配階級に期待どおりの生活水準を保証する富を持続的に確保できなかった〔cf. Satish Chandra〕。ゆえに、征服活動を続けることになった。そこで、中央の皇帝政府は、その軍事力を確保するために農民から必要な税収を確保しようとした、とイルフラーン・ハビーブは言う。しかし、徴税のためには各地方の支配階級(地方君侯や領主)の仲介を必要とせざるをえなかった〔cf. Habib〕
  皇帝は、征服活動によって獲得した権威によって地方支配層の統治と徴税権限を裏打ちしたはずだ。この場合はジャギルダール――皇帝によって授封された俸禄地からの収入で兵員を養う将官層――が地方統治と徴税を担当した。だが、徴税を担った階層の利害は、皇帝政府の利害とはまったく異なっていた。そのため、地方での権威や徴税権を確保してしまうと、彼らはしだいに領主化して、農民から収取する経済的剰余のうち自分の取り分を増やすために、搾取率(貢納賦課率)をしだいに高める傾向があった。だが、それは農民の土地からの逃避や武装蜂起、耕作放棄などを招いてしまった。長期的には、帝国の財政的・経済的基盤の衰退につながったという〔cf. Habib〕

  1605年、皇帝アクバルが死亡すると、帝国体制は――皇帝家門の部族的な軍事力とパーソナルな権威=臣従関係によって統治秩序が成り立っているかぎり当然のことだが――全般的に動揺した。とくに目立ったのは、北部のアフガン、中西部、南方では諸侯(諸族)が公然と独立傾向を示した。なかでも、とりわけ中西部から中央部にかけてマラータ諸族が繰り返す反乱と襲撃には、新皇帝ジャハンギールは手を焼いていた。
  1626年、ベンガル地方の太守マハバドカーンが皇帝を捕縛して、権力を拡張したため、帝位の継承紛争が発生した。その4年ほど前から、皇太子シャージャハーンはジャハンギールの権威に反乱を企ててきた。シャージャハーンは、1628年頃には中央宮廷で覇権を握った。
  だが元来、ムガールでは帝国支配は皇帝直属の軍隊と個人的権威によって成り立っていたから、帝位を新たに継承した君侯は皇帝の権威を確立するために、各地を遠征=巡行して有力太守に臣従を強制し、あるいは征服をおこなうことで帝国を支配する覇権を確立するのが通例となっていた。また、ムガールでは帝位の長子相続制度はなく、帝位は兄弟や親族、さらには親子が互いに争奪戦をつうじて獲得するものとされていた。
  シャージャハーンは、帝位の継承を正統化し権威を各地方に浸透させるために征服戦争を続けることになった。当然のことながら、皇帝の交代にともなってムガール帝国の版図における各地方や部族の統合と統治秩序は動揺し、地方太守・君侯たちの自立と権力の拡張をめぐる闘争が各地で続発し始めた。とりわけインド中部以南では、地方君主の自立化が進んでいた。なかでもシャージャハーンの子アウランゼーブは、1653年にデカン地方の副王となり、帝位をめぐって父と争うようになった。58年には、アウランゼーブはシャージャハーンを軟禁して帝位を簒奪した。またもや、皇帝の交代によってムガールの支配が動揺するのは避けられなかった。17世紀後半になると、各地で戦争や反乱が相次ぎ、アウランゼーブは何度も鎮圧のための遠征をおこなうことになった。
  とりわけ1674年には、西部のグジャラート、中央部のマルワ、東部のゴンドワナにおよぶ地帯でマラータ諸部族の同盟が結成され、ムガール皇帝の権力から独立するようになった。マラータは、ムガールの統治体制では卑しめられてきたヒンドゥ教の部族カーストで、マラータ同盟の創設者シヴァージは反乱勢力として各地に攻め込んだ。とはいっても、この時点では、領土の確保や拡張をねらうというものではなく、あちらこちらを粗暴に荒し回る民衆蜂起に近い動きだった。新皇帝はデカン地方を征圧するため何度か出兵し、マラータ同盟を攻撃した。しかし、一時的にマラータの勢力を抑え込むことができたが、17世紀末からマラータはふたたび活発化し、1706年には皇帝アウランゼーブを追い詰めて講和にもち込んだ。翌年アウランゼーブは没して、ムガールの権力はいっそう弱体化していくことになった。

  そもそもインドでは、皇帝の支配も太守層の支配も半ば自立的な地方的・局地的な統治秩序の「上に」覆いかぶさっていた。ことに農村では、地方有力者層が村落秩序の担い手となっていたが、しだいに土地支配権や徴税権を世襲的に保有する領主=大地主家門となっていった。
  インドの基層社会と民衆は、言語や宗教・風習(カースト)などの差異によって無数の小さな部族共同体や地方単位に分裂していた。都市居住区や農村共同体などの弱小な生活単位に分断されていた民衆は、ほとんどの場合、それらの個別の単位を超えた連帯・紐帯を結ぶことはないがゆえに、ムガール皇帝や太守(君侯)の支配、さらにのちには BEIC のような巨大な視野と広大な軍事的行動範囲をもつ権力に抗する術を知らなかった。インドでは支配所階級も民衆も無数の断片に分断されていたのだ。隷属や植民地的従属からの nation としての解放=独立への意識と連隊は、皮肉なことに全インド的な規模での統治体制を構築したブリテンの植民地支配(帝国政策)の帰結として生み出されることになるのだった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社