第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

ⅱ 恒常的経営組織への転換

  船舶と艤装の調達をめぐる会社の需要と支出は、イングランド国内の造船業の構造転換を促進し、外洋航海用の大型船舶の製造業と関連諸産業を育成することになった。
  17世紀初頭まで、イングランドの造船業は沿岸航海用の船舶または漁船しか製造できなかった。外洋航海船舶を建造できる技術をもっていたのは、ポルトゥガル人、エスパーニャ人、ヴェネツィア人、ジェーノヴァ人、ホラント人だった。イングランド人たちは、香辛料ブームが誘導した会社の冒険航海のために、はじめは外洋航海用の船舶をネーデルラントから莫大な金額で購入した。だが、域外への巨額資金の支払いを惜しんで、自力で船舶を建造する事業を育成することを企図し、1607年、デプトフォードに造船所を設立した。そこで建造された最初の2隻がトレイドインクリーズとペパーコーンで、これらは1610年、6回目の航海事業に就航した。
  ブライアン・ガードナーによれば、東インド会社はそれまで船舶調達のためにトン当たり45ポンドも支払っていたが、造船所設立後には10ポンドで済むようになったという〔cf. Gardner〕
  デプトフォード造船所には500人の職人が雇われ、船大工、塗装工、組立工、桶工、指物師、彫刻師などが工夫を競い意匠を凝らしたという。造船業は、汎布製造、武器製造、印刷、金属機械加工などの広範な艤装・装備関連の産業を引き連れて発展した。造船所は、それまで外国への発注に頼っていた大型船舶の修理や補修も国内でまかなうことを可能にし、航海を終えた船舶の補修や改修にも役立った。
  とはいうものの、会社は造船所の経営と船舶の所有には膨大な費用がかかるということで、1620年にはそれを手放し、以後はもっぱら傭船契約に依存することになった。にもかかわらず、会社は傭船のために多額の費用を投入したため、会社の大株主である造船業者に巨利をもたらした。船舶調達をめぐる会社の意思決定には、取締役会における造船業者たちの発言力が大きく影響していたのだ。

  インドでは会社の商館―― factory と呼ばれた――の多くは城塞に囲まれていて、その内部には倉庫と事務所と従業員の住居があった。従業員の「公式の給与」はかなり低かったが、インド域内での商業活動は従業員個人の私的交易に全面的に委任されていて、彼らは会社の特権を私的に行使してかなりの利潤を獲得していた〔cf. Bipan Chandra〕
  さて、「1621年までに東インド会社は、31万9211ポンド相当額の羊毛製品や鉄、鉛、錫などを輸出し、オリエントの商品の買い付けには37万4600ポンドを費やした。その代わりに、これらのオリエント物産はイングランドで204万4600ポンドの売上額をもたらした。最初の航海から12回目まで平均利回りは138%だった。しかし、出資金の返済には長期間が必要だった。1航海は1年では終わらず、ときには3年も4年もかかった。その間の航海費用もまかなわなければならなかった。しかし、会社が儲かっているのは確かだった。・・・・・・1609年になると、会社は航海ごとに決算する方針をやめて、株主の出資金は積み立てたままにしておいて経営全般に充てて、利益だけを出資額に応じて配分することにした〔cf. Gardner〕」。
  会社は恒常的な経営組織を備えるようになった。ヨーロッパの商業資本ブロックのあいだの競争形態は、単発の冒険航海事業ではなく、恒常的な組織のあいだの闘争に転換しつつあった。

  ロンドン東インド会社会にはけたちがいに強大な競争者がいた。1602年に設立されたネーデルラントの連合東インド会社 VOC は資本金54万ポンド、保有船舶60隻で、 BEIC の資本金3万ポンド、保有船舶17隻に対して圧倒的な差をつけていた。 VOCBEIC にも資金を融通していた。つまり BEIC の出資者だったのだ。イングランドは王権政府の財政資金の調達や有力産業の経営資金について、ネーデルラントに依存していたのだ。
  それは、ヨーロッパの「有力な王権国家」よりもはるかに巨大な財政規模と軍事力を誇っていた。イングランドは王権政府の財政資金の調達や有力産業の経営資金について、ネーデルラントに依存していたのだ。
  VOC は強力な陸上軍と組織立った艦隊を保有し、インド洋とアジアの最良の寄港地にはすべて城塞を築き、系統的で執拗なやり口で各地方の統治者を抑え込んでいた。両会社は互いに権益を争奪し合う競争者として相手を意識し、敵愾心を抱いていた。インド洋と東南アジアでは一触即発の状況のなかで小競り合いや衝突が頻発していた。17世紀初頭、大局的な状況として、この地域で VOCはポルトゥガル勢力を駆逐してしまったたが、これに対してイングランドは――東インド会社とその取り巻き商人たちの活動をつうじて――執拗な挑戦をようやく始めたというところだった。

  世界貿易を組織する特許会社は、法理上は「重商主義的政策」つまり外国貿易の王室独占を前提としていた。それは外国貿易はイングランド王室の独占的な特権であって、東インド会社を含む貿易特許会社は王室への賦課上納と引き換えに世界の特異地域との貿易や経済活動をめぐる独占権を認められることになっていた。
  この特許権の獲得(海外特定地域との貿易独占)をめぐっては、見込まれる利潤の大きさや利権のうま味からしても、つねにいくつかの商人団体のあいだの競争が繰り広げられ、そういう団体と結びついた議会での諸政派やら諸派閥の利害闘争が絡み合っていた。したがって、特許状の更新時期を迎えるたびに東インド貿易をめぐっても、議会庶民院多数派(ロンドンの最有力商人集団)が貿易活動をどのように規制するかという中央政府の政策の在り方が政争の論点となった。
  東インド会社の周囲に結集した商人集団や政治家たちの利害や意見は、会社が大きな利得を政府財政にもたらしいるかぎりは、比較的に抵抗やら紛糾なしに押し通すことができた。しかし、インド方面での紛争や武力闘争が頻発したり大規模化したりすると、議会庶民院は中央政府の会社事業への介入や統制を強化しようとするのだった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社