第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

ⅲ アジア貿易をめぐるヨーロッパ諸国民の闘争

   東アジアからインド洋にかけて BEICVOC とのあいだの闘争は熾烈化していった。1609年、紛争解決のために両者の勢力圏と権益を画定するために協定が結ばれたが、効果はなかった。これらの地域における勢力圏と権益の確保にさいしてネーデルラントは、自らの勢力圏を3つに区分したという。

1つめは、ネーデルラントがその土地の君侯から割譲されたか、その君侯を打倒して絶対的支配権をもつ地域、すなわち武装された貿易基地。2つめは、ネーデルラントが貿易の独占権だけを獲得している地域。3つめは、特別の権利を確保していない地域だった〔cf. Gardner〕

  だが、17世紀の中頃までネーデルラントは、モルッカ諸島の香辛料についてだけは依然として独占権を保持していたものの、ほかのアジア産商品――絹、茶、陶器など――については、現地での購入でもヨーロッパでの販売でも、イングランド、ポルトゥガル、イタリアなどの商人グループが参入して厳しい競争に直面していた。アジアの貿易は多角的かつ開放的で、これらの商品について、ヨーロッパ人たちは多様な調達経路を開発していたのだ。そこで、優位を維持するために、 VOC はモルッカの香辛料の独占だけはいかなる手段を用いても固守するつもりでいた。
  ネーデルラントは、東南アジアの諸島で胡椒や香辛料の生産と獲得のために力ずくの植民地支配を始めようとしていた。それは、アジアにおける剰余価値の収奪の仕組みの組織化であった。ブリテンの会社も、やがてインドで同じ道をたどり始めるが、その企図ははるかに大規模になり、強大な統治組織と徴税組織の形成につながるものになるはずだった。

  一方、イングランドは東インド諸島ではネーデルラントの優位と独占を崩す見込みがなかった。そこで、会社は中国への貿易路の開拓を試みたが、これも挫折した。次いでペルシア湾とアラビア方面に目を向けたが、やはりここでもすでに VOC がヨーロッパ人が入り込めそうな主要な拠点を完全に押さえていて、割り込む余地を見出せなかった。やむなく、イングランドはインドに向かうことになった。だが、イングランド王権とロンドン商業資本は、インドとの持続的な貿易関係を組織するためには、その地の統治権力の担い手から貿易特権を獲得しなければならなかった。
  1608年夏、ムガールの皇帝あての親書を携えた BEIC の船舶ヘクターがインド西岸の沖合いに姿を見せ、ポルトゥガル人との小競り合いののち、スーラトに上陸し、土地の太守に拝謁して通商を求めた〔cf. Gardner〕。だが、その太守は「対等な交易」という観念をもっていなかった。太守にとって財貨のやり取りは、彼の支配と権威に付随する恩寵でしかなかった。太守は、ヘクターの司令官ホーキンズが交易用に陸揚げした積荷を献上品として取り上げてしまった。インドでは、地方君侯がほしいものを住民や旅行者から献上品として取り上げることは、彼らの地方特権=統治権として認められていたのだ。
  イングランド人は、地方君主の横暴とポルトゥガル人の攻撃の双方に悩まされた。そこでホーキンズは、ムガール皇帝に拝謁して貿易圏を懇請するためにアグラに向かった。だが、皇帝ジャハンギールもまた、ムガールの帝国支配の慣行のほかは理解していなかったため、「対等な立場での契約に基づく商取引き」という事柄を理解できなかった。まして「外国人との貿易をや」であった。

  その頃 BEIC は、ジャヴァ島のバンタムやスマトラ島、インド西岸のスーラトなどに駐在員を置いていた。そして、セレベス、モルッカ、シャム、ペルシア、日本、中国との接触をはかったが、17世紀半ばまで、貿易関係の樹立ははかばかしくなかった。商館 factory といえるほどの通商拠点は、1612年に商館を設置したスーラトとバンタムだけだった。1611―16年のあいだに、この2つの貿易基地は4万2000ポンドの商品を買い付け、それぞれの航海事業の積荷販売の利益は100%を超えていた。しかし、長期のあいだに利益率は逓減して、1621―32年のあいだで最高の利益率は12.5%、1633―42年の10年間で見ると、会社の年間利益率が3.5%しかなく、無配当が数年間続いたという。なかでも、香辛料の大部分は VOC から購入していて、クローヴ(チョウジ)と胡椒だけが会社にとって利益と呼べるほどの剰余をもたらしたにすぎないという〔cf. Gardner〕
  1601年から1640年までの期間、会社の輸出額が輸入額を上回ったのは、たったの2年だけだった。そもそも、熱帯・亜熱帯の住民が北西ヨーロッパの製品を「大いに必要とする」ことはまずありえないことだった。ことにイングランドの主要製品、毛織物は不用だった。それに対して、ヨーロッパは胡椒や香辛料や茶、陶器、絹織物、木綿などを必死に追い求めていた。
  イングランドは、多額の貴金属と引き換えに東インド物産を調達した。これは、会社の経営の根本的弱点だった。「最初の23年間で7万3300ポンド以上の金塊がオリエントに流出した。インド、中国、日本などの商人たちは誰もが毛織物ではなく金銀に興味を示した〔cf. Gardner〕」。
  17世紀後半になると、イングランドはインドからついに綿織物や絹織物までも輸入するようになって、事態はますます悪化した。原料や素材となる産物は、東インド地方の香辛料を除いて、容易に輸入できなかった。1671年には、インドから輸入する製品の50%(従価税から判断して)が絹や綿の織物だったという。「胡椒を輸入総額の26%にもっていきたいという目標はなかなか達成されなかった。1675年には会社の輸入額は86万ポンドに達した〔cf. Gardner〕」。

  ブリテン商業資本は、インド以外のインド洋と東南アジアの諸地域ではネーデルラント商業資本によって執拗に貿易参入を妨害され、しかも、将来有望に見えるインドの西岸地方にはポルトゥガルが拠点を保持して、手ごわい競争相手になっていた。衰退が目立ち始めたポルトゥガル王権にとっては、インド洋方面ではここだけが最後のよりどころになっていたから、その権益にしがみついていたのだ。それでも、 BEIC にとってはインドだけが有望な市場になりそうに見えた。だから、ポルトゥガルの権益を奪い取るしかなかった。
  1612年に会社の2隻の艦船がアラビア海で4隻のポルトゥガルのガレオン船艦隊を撃破して以降、インド沿岸部ではイングランドが海上での優位を保つようになっていた。アラビア海の航路はインドからメッカへの巡礼にとってきわめて重要だったから、ムガール皇帝は、制海権を握ったイングランドの会社に貿易特権を許可した。この年、皇帝ジャハンギールは、会社にスーラトでの商館 factory の設立を許可した。つまり、皇帝は「同盟」の相手を乗り換えようとしたのだ。1615年になると皇帝はポルトゥガルに宣戦し、ブリテンに向かっていた会社の艦隊をスーラト沖に呼び寄せ、ポルトゥガル艦隊を攻撃させた。この海戦で大きな打撃を受けたポルトゥガル艦隊は、その後、インド洋方面で勢力を回復することはなかった。ポルトゥガル商人は、イングランド人勢力の庇護のもとで活動することになった。
  この年、イングランド王権は会社の要望に沿って、アグラの宮廷にトーマス・ロウを派遣し、皇帝との交渉にあたらせた。その結果、アグラとスーラトでの会社の権利を拡大することができた。皇帝は、ブリテン人軍隊の駐留、司令部の設置、居留地のイングランド人社会での裁判権などを認めた。
  ところが、インド洋全域と東南アジアの香料諸島では VOC の勢力が膨張し続けていた。1619年、 VOC はジャヴァに総督府を設置し、バタヴィアに商館基地を建設した。この年、モルッカでの香料買い付けをめぐってイングランドとネーデルラントのあいだに一時的な和平協定が結ばれ、名目上、 BEIC がここでの貿易量の3分の1まで扱うことが認められた。だが、協定に効力はなく、両者の戦闘と小競り合いが続発した。とはいえ、ヨーロッパではイングランドとネーデルラントはエスパーニャへの対抗上、同盟していた。しかし、エスパーニャの脅威がないところ――アジアやカリブ海――では、両国民は激しく闘争していた。イングランド商人はネーデルラントの商業覇権に果敢に挑戦していた。
  イングランドでは、ロンドンやブリストルなどの大港湾都市で新聞・出版が盛んになり、東南アジアでの両者の角逐が報道喧伝され、好戦的な「愛国心」が喚起され、世論はネーデルラント攻撃へと誘導された。この世論操作には、 VOC の権益への攻撃を準備する会社の策謀が一枚噛んでいた〔cf. Gardner〕
  1652年には戦争(アングロ=ダッチ戦争)が始まり、54年まで続いた。戦端は、インド洋、大西洋、アメリカ大陸のいたるところで開かれた。ネーデルラントはインド航路の要衝、喜望峰を確保した。イングランドは、全体として―― ヨーロッパ、大西洋、新大陸では――戦争には勝ったが、東南アジアでは勢力を失っていった。 VOC の勢力は膨張し続けていた。1665―67年の第2次アングロ=ダッチ戦争ののちには、アンボンのイングランド商館は閉鎖に追い込まれてしまった。
  インドでは、ヨーロッパにおける同盟にならってブリテンとネーデルラントはエスパーニャ・ポルトゥガルに対抗する共同戦線を維持していた。 BEIC は、アラビア海でペルシアと同盟してポルトゥガルを攻撃し、ホルムズ湾の基地を占領した。 VOC は、セイロン島をポルトゥガルから奪い取った。だが、インド洋でのポルトゥガル勢力を封じ込めてしまうと、まもなく両者は対立するようになった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社