第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

  それゆえ、この大きな権益への参入をもくろむ商人が続出するのは避けられなかった。イングランドの貿易商人諸個人、諸分派(諸団体)は相互に激しい競争をしていたから、会社のインド洋・極東方面の貿易に関する独占権を無視して、オリエント物産の貿易や利権に割り込んでくる手合いが絶えなかった。これが2つ目の問題だった。
  ことに北アメリカ植民地に拠点を置いて大西洋方面で密輸入や私掠行為 privateering をおこなっていた商人は、王権から許可を得ることなく、自分たちの船舶でインド洋に出向きオリエント物産を調達してニューイングランドで安売りして、しこたま利益をあげた〔cf. Gardner〕
  結局のところ、会社は、こうした輩のうちの有力者(成り上がり者)をロンドンの商人サークルや会社の代理人、さらには役員として迎え入れることで、最有力の商人団体としての地位や結集力、活力を保つことになった。

  3つめの問題は、ライヴァル会社の出現だった。これは2つめの問題と同じ背景から生じたものだった。1688年、名誉革命でステュアート王朝が倒れた。その後、王権と会社の関係が混乱した間隙をついて、新王ウィリアムが200万ポンドの融資と引き換えに、ウィッグ派商人の設立した団体にインド洋方面の貿易特権を許可した。これによって出来したライヴァル会社との利権闘争、そして合同にいたる経緯を一瞥する。

  17世紀をつうじて、会社(役員)やその従業員、関係者はブリテン本国で政治的権威を獲得していった。彼らは、議会内にも有力なロビイを扶植した。インドでの幹部経験者が庶民院で議席を得ることもあった。しかし、17世紀末の王権の交代にともなって、政府と東インド貿易特許の管理について混乱が生じ、東インド貿易という利権機会に参入をねらうほかの私的企業家や団体の圧力を受けて1694年に規制撤廃法が成立した。これによって会社の完全独占は一時的に崩れてしまった。
  1698年には、法によって200万ポンドの政府保証のついた「イングランド東インド貿易会社 the English Company Trading to the East India 」の株式が発行され、「新旧」2つの東インド会社が並び立つことになった。新たに設立された会社は、国内では強力な競争相手として BEIC に挑戦してきたが、独自の貿易ネットワークや組織を構築することはできなかった。とかくするうちに、ロンドン会社の大株主連合は、31万5000ポンドを出資して、ただちに新会社の最大の株式保有比率を確保して、新会社を支配してしまった。新会社は、実質的に東インド貿易では「旧会社」の競争相手になりえなかったのだ。1702年には、王権と新旧会社の3者の契約締結によって、両会社は合同してしまった。

  この協定によって、合同会社は王権政府大蔵省に320万ポンドの融資をおこない、その見返りに向こう3年間独占特権――3年経過後に再評価することが条件となった――を与えられた。この会社は、「東インドへの貿易に従事するイングランド商人の連合会社 the United Company of Merchants of England Trading to the East India 」という名称を与えられた。
  新会社は「表向き」には4年間会社と並存・競争したが、既存の東インド貿易関係を侵食することもなく、新たな貿易組織を構築する努力は見られなかった。してみれば、それまで会社の貿易独占にともなう利権から排除されてきた商人団体がインドをめぐる権益分配への参入を求めたというのが、ことの実相だったようだ。両会社は、激しい競争にともなうリスクとコストをまかなう困難を思い知って、やはり「独占のうまみ」を維持するために、合併交渉と手続きを進めて1709年に合併したのだ。こうして、インド方面の権益をめぐっては、ブリテン商業資本の最有力の諸分派は単一の経営体に合同して、形のうえでは国民的規模で統合されたブロックとして活動をおこなうようになった。

  当然のことながら、こうした挑戦者や異分子を会社の内部の取り込むことは、会社の活力を強化し、活動範囲を拡大したが、その一方で組織全体の管理統制を難しくし、逸脱や損失の発生を起きやすくした。そして、会社が世界貿易と植民地経営に関与する国家装置――ないし商業資本の権力ブロック――の主要なセクションであるかぎり、それは国家組織の諸装置と政策をめぐる統制ないし力関係の調整の問題となったのだ。そして、庶民院は、機会を窺っては東インド会社への統制を強化するようになった。
  支配階級のメンバーが東インド会社、中央政府組織の諸部門、議会の諸政派などに分かれて、自らのセクトの優越を求めて対立したり、同盟したりという駆け引きを展開することになった。
  その後の数十年間、会社のロビイと議会=庶民院との対抗と駆引きが続けられた。議会は、会社が獲得した利潤を政府財政に取り込む機会を手放すつもりはなかったから、会社にさらに大きな自立性を与えることを拒否した。1712年には新たな別の法律によって、会社の地位=特許権が更新された。1720年までには、ブリテンの全輸入額のうちの約15%が東インド貿易で、そのほとんど全部が会社の取引きが占めていた。それがもたらす利潤が会社ロビイの影響力拡大の資金源となった。そして、1730年の法律によって、会社の特許権は1766年まで延長されることになった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社