第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

  1670年代には、インド=ヨーロッパ間貿易をめぐる会社の独占体制は強化される一方で、アジア域内での一般商人の活動は自由化され、彼らの活動が活発化した。この頃から、会社の従業員も一般の私的商人もともに会社に保証金(賦課)を支払ってインド亜大陸およびアジアで域内自由貿易権を買い取り、自由商人 Free Merchant の地位を獲得した。会社は、一定の保証金と引き換えに、インドおよびアジア域内で一般ブリテン人商人の自由貿易特権を保証する制度を導入したのだ〔cf. 浅田 實〕
  ただし、会社はインドとブリテンとのあいだ――ブリテンからの再輸出先としてのヨーロッパないしアメリカ大陸・大西洋方面へのインド・アジア産品――の貿易については独占を確保し、制度上は他者の参加を許さなかった。
  他方で会社はロンドン向けに輸出する多種大量の商品を自由商人から買い入れていた。自由商人たちは、会社の統制権のおよばないところで、あるいは会社のサーヴィスを利用しながら、会社の従業員とも連携しながら同じように商業活動をおこなった。そしてそれ以外にも、会社から自由特権を受けない私的商人もまた多数活動していた。
  会社の特権や軍事力を狡猾に利用した従業員=商人ほどではないにしろ、私的自由商人たちは地方貿易やアジア域内の地方間貿易でしたたかに利潤を稼得し富を蓄えていった。インド洋から東シナ海にいたるアジアの海洋では多様で豊富な特産物が行き交う貿易が活発に営まれる場だった。海賊や遭難の危険がともなうリスクの高い商業だが、利潤もまた大きかった。そこではいたるところからやって来た多数のアジア人商人が活躍していた。

  だが、17世紀半ば近くになると、東アジアからインド洋におよぶ海域では、とりわけ長距離航海ではヨーロッパ人組織としては VOC が圧倒的な数の船団を動かしていた。 BEIC は資金不足のうえに組織も貧弱であったから、団体としてはアジアの地方間海上貿易には手が出せず、イングランド人私的商人たちが個々に担うことになった。とりわけ自由貿易商人が制度化された1670年代以降になると、インド各地やベンガル湾、東南アジアの諸島でブリテン人商人は地方間の交易で活躍した。個人や零細な商会がアジアで冒険商業に挑戦する条件は与えられていた。
  東南アジアとインド洋では多様な必需品の貿易機会に野心的な商人の挑戦を促進するために、古くから独特の商業信用制度が広く行き渡っていた。それが冒険貸借 respondencia といわれるもので、信用を得て商品を買い入れた商人は、目的地に安全に到着したときに利子をつけて買入れ代金を支払う借入れ制度だ。当然、利子は高いけれども積荷が寄港地に無事に到着した場合に限って代金を返済する信用契約で、航海中は、積荷に対する債権は貸主が支配する代わりにリスクを負った〔cf. 浅田 實〕。実際上は、商品の本来の所有者に輸出販売先を提案した冒険商人が、成功報酬と引き換えに商品の目的地到着後の売りさばきを受託する制度というべきか。
  東インド会社とその取り巻きブリテン人商人たちは、インド亜大陸ならびにインド洋方面とヨーロッパとの貿易を組織化するだけでなく、インド・南アジア地域内の交易にも参入し、やがてインド域内での商業活動の組織者となっていった。

  さて1687年頃、インド西部の中心基地としての機能がスーラトからボンベイに移転され、今度はボンベイ商館がインドにあるブリテンの要塞や居留地の全部を統括することになった。会社のボンベイ商館の指導者ジョン・チャイルドはイングランド人陸兵隊ならびに会社の艦隊の最高司令官となった〔cf. Gardner〕。会社は、インドでまだごく小規模で局地的な影響力しか保有していなかったが、各地の通商拠点と軍事拠点を統制する制度的組織を備えたことによって、遠く離れたロンドンとの通信連絡・調整を事実上介在させることなく独立して経営活動――つまりは通商活動と軍事行動――を推進する能力をもつことになった。
  現地会社組織は、インドの経済活動に食い込むために、ムガール皇帝の権力から独立して貨幣を鋳造した。こうして会社は、実質的にこの時期から、インドで貿易上の経営活動だけでなく、地上軍と艦隊を指揮し、しかも通貨主権、財政主権を行使する統治装置に転換し始めた。1689年の会社の公式声明では、インドのなかで「1つの統治権力(国家)とならなければならない」と明言していた。この動きは、ブリテン国家の統治組織との関係における会社の権限の強化と並行していた。

  一方、極東での貿易の開拓はなかなか進まなかった。日本との貿易は閉塞し、平戸に設けた商館は1623年に放棄された。中国の皇帝政府はヨーロッパとの接触を好まなかった。中国との貿易関係はやっと1690年になって確立された。会社は、鉛、羊毛を輸出して、茶、香辛料、絹を輸入した。輸入産物はいずれも高額の商品で、中国は代金の3分の1を銀で支払うことを要求した。しかし18世紀に入ると、貿易関係は拡大し始めた。1711年、会社は銀と引き換えに茶を買い付けるために、広東に貿易拠点を設けた。その後、茶の輸入量を飛躍的に増大させた。茶は、17世紀後半から富裕商人や地主貴族、高級官吏や法律家などの専門職層など上流層の消費生活に浸透し、ロンドンのコーヒーハウスで流行の飲料として飲まれ始めた。イングランドで需要が高まった茶の買付けのために、会社は巨額の貴金属を中国に輸出しなければならず、それゆえまたロンドンからインドの総督府への貴金属の流出が避けられなかった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社