半世紀以上(60年近く)も前の映画作品=古典を観ると、今日の映画や小説などの物語の特質というか問題点が浮かび上がる。すなわち、説明過剰の今日の映画や小説などの物語は詰め込む事柄・内容が多すぎて、テーマや本筋がなかなかに読みにくい――という特質=欠陥が浮き彫りになる。
情報の過多が受け手の側の想像力や自立的学習の機械を妨げているわけだ。
見方を変えると、最近の映画作品は膨大な映像情報の集積――デイタベイス――を私たちに提供しているのであって、観客が自分の価値観や好みに応じて自主的に物語の大筋を組み立て、背景を理解するような仕組みになっているともいえる。
つまり理解し(咀嚼し吟味し)楽しむためには、自らに必要な情報をしかるべき尺度で選別し、それを総括的に組み立てなければならない。そういうわけで、その意味では、映画などの物語を見たり読んだりすることがリテラシーのチャレンジとなっているのだ。
私なんかは、「いったいこれは何を意味しているのだろう?」と悩み続ける毎日だ。ひねくれ者の私にとっては、思い悩み考え続けることは、趣味であり楽しみでもあるのだが。
それゆえまた世間では、「一見わかったような気分になる情報」「お手軽に楽しめる短縮情報」が大流行になっている。こうして、衆愚的な情報が氾濫することになるのかもしれない。
さて話を戻すと、この作品は、現代文明滅亡のシナリオのひとつを提示している。核戦争とその直後の核汚染によって人類が滅亡していく物語だ。
原題は On The Beach ということで邦題通りだ。原作は Nevil Shute Norway, On The Beach, 1957 。ビーチ(海辺)とは、比喩的に滅びゆく人類文明の臨界点を意味するのかもしれない。
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