ターナーは、この組織のなかでは「コンドル」という暗号名を与えられている。CIAの本部や支局などの組織とのやり取りでは、このコードネイムを使う。
彼の仕事は、世界中の出版物のなかで比較的マイノリティに属する言語(当時のCIAの格付けによる)に訳された新聞・雑誌の記事、国際的事件や冒険、スリラー小説などについて、調査・分析することだ。
英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語とかではなく、アラビア語、スペイン語、ネーデルラント語、中国語などに訳された場合の、文化的・政治的意味合いを探り、そこに国際的な権力闘争や謀略などが絡んでいないか。とりわけCIAの活動との関連(現在手を染めている作戦や将来の可能性)を探るのだ。
ターナーは先頃、中東のさる石油産出国でのクーデタ絡みの政変を描いた小説に注目し、その地域を扱った報道記事、雑誌記事などを収集して分析した。その物語は、英語やフランス語ではなく、アラビア語やネーデルラント語、スペイン語などに翻訳されていた。
分析の結果、そのような政変が起こりうる背景や条件があること、それゆえ、CIA本部が今後継続的にこの国をめぐる情勢を監視し続ける必要がある、とターナーは判断した。彼は、それについての報告書をCIA本部に送った。
本部が何らかの関心や懸念を抱いた場合、引き続いて関連事項の追跡をおこなうように指示を出すことになっていた。あるいは、本部の指揮下で専門部署が本格的な情報活動に乗り出すこともありえた。
コンドルの指摘が的外れでなければ、懸案の問題(その国の政変)は世界の石油市場、石油をめぐる力関係に影響を与えるだけでなく、中東情勢にもインパクトを与え、アメリカの戦略や戦術もまた練り直しを迫られるようなものだった。
報告書を送付してから数日たったある日。初冬のニューヨークの街中。
文学史協会は、この都市の中心部に近いが閑静なブロックにある。セキュリティのために、1つの小さな建物がまるごと協会の施設になっている。
その日の朝、協会の職員はすでに出勤し、準備を終えて仕事を始めていた。だが、その日、ターナーとハイデッガーの顔はオフィスにまだなかった。ハイデッガーは病気で欠勤だという。ターナーは「遅刻の常習犯」だった。
職員たちがターナーの遅刻の噂をしている頃、本人はまだ街路をミニバイクで走っていた。そのターナーが協会の玄関にやって来た。
協会の玄関の上部には監視カメラが設置されていて、内部の係(エドウィナ)がカメラを通じて室内の受像機で外から来る人物を監視・確認して、ようやく扉が開錠される仕組みになっている。
ターナーは、エドウィナに常習の遅刻の言い訳をしながら室内に入った。そこでラップ博士と挨拶して、CIA本部(または支局)から自分宛の手紙が届いていないか尋ねた。懸案事項について、本部が何か指示なり評価なりを示すはずだと確信していたからだ。返信はまだ届いていなかった。
というようなしだいで、文学史協会のオフィスでの1日が始まった。
そのとき、オフィスの外の街路の端には、見慣れない(とはいっても、大都市では当たり前のことだが)セダンが駐車していた。車中の男は、協会の玄関付近を注視しながら、早朝から出勤してくる職員、出入りする人物や業者を監視していた。
その男の手許には、職員リストのファイルがあった。たった今、ターナーという名前をチェックしたところだった。8人の名前リストのうち、残りは欠勤の1人だけだった。
監視役の男は、長身痩躯の紳士だった。