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そこで、音楽家としての「のだめ」のありようを考えてみましょう。
のだめは、天賦の豊かな才能があって、ピアノ曲を直感的に「わがもの」としてしまうのです。
ドイツ哲学風にいえば、 an sich な把握、あるいは「彼女にとっての音楽」をつかんでしまうのです。
その段階=位相において、つまずきや停滞はないわけです。
普通の人たちが、そこで立ち止まらざるをえない壁や間隙を、いとも簡単に、無意識に跳び越えていってしまいます。
けれども、そのことが、さらに高い次元への飛躍にとっての壁=限界をもちきたらすことになります。
直感的につかんだ音楽は、しょせん表層の現象にすぎません。それだけで、音楽を理解したことにはなりません。
ところが、のだめはそれで理解したつもりになるというか、自分流に演奏できればいいと、たぶんそこで満足してしまうのでしょう。
いや、自分の理解の仕方・度合いを疑わないというべきか。ほかの理解の仕方とか、なぜ、いかにして、そうなるのかについては関心が向かない、要するに、視野が大変狭いのです。
だから、いや、あるいはというべきか、そこから先に進む(音楽の専門家になる)ための厳しい訓練・練習を拒絶するのです。
普通の人は、それよりも低いというか初歩的・プリミティヴな段階で、壁や限界、思うようにならない悩みにぶち当たるのです。
それゆえに、その限界をなんとか乗り越えようとして、曲の音楽性を理解するために、
その作曲家のほかの曲を聴いたり、
彼の人生や生い立ち、作品群や生涯のなかでのその曲の位置づけを学んだり、
作曲家自身の意図や目的がどこにあるかを理解しようとしたり、
時代背景、当時作曲家たちに流行った音楽思想や方法論などの知識を得ようとしたり、
することになります。
あるいは曲の意味や構想についての諸説を学ぼうとするのです。
つまりは、作品の分析( analyse )、読解をおこなうわけです。
まあ、理論倒れ、知識倒れに終わることも多いでしょううが。理屈や知識に振り回されてしまうこともあるでしょう。
要は実践、現実の演奏なのですから。
いずれにしても、のだめは「自分にとって楽しい音楽」であればいい、という段階で立ち止まったままなのです。