迷宮のレンブラント 目次
原題
見どころ
あらすじ
贋作の「天才児」
父と息子
画商たちの陰謀
レンブラント作品の追跡
出会い
絵の具と方法論
下準備
画家と鑑定家
恋の火花
父の肖像
奔りだした…筋書き
逃避行
追い詰められたハリー
意外で皮肉な逆転劇
営利事業としての美術

贋作の「天才児」

  ときは、まだ日本では「バブル」の余韻が残っていた頃。日本の富裕な個人や企業が、当時は「あり余る」ほどと感じていた資金を投じ、世界のオークションで名画に天文学的な金額を連発して買いさらっていた頃で、。1991年のことだ。

  ニューヨークのダウンタウン(旧中心街)。古くからの狭い路地を抜けて、若い男が布に包んだ平べったい荷物を抱えて、建物に上がっていった。入り込んだのは小さいが繁盛している画廊。
  ルクイエ・ギャラリーというらしい。若い男はハロルド(ハリー)・ドノヴァン。
  ちょうど、大盛況の展覧会が引けたところだった。
  ハリー・ドノヴァンは画廊の経営者に会うと、荷物を包んでいた布を取り去り、キャンヴァスを取り出した。作品を見た画廊の主は顔を輝かせ、「すばらしい」と驚嘆した。ハリーは代金を要求した。
  ところが、画商は金額を値切ろうとして、約束の代金よりも少ない札束を渡そうとした。ドノヴァンは油絵を抱えると、「約束が違う。この絵は別の画廊にもっていこう」と冷たく言い切った。
  部屋を出て行こうとするドノヴァンを押し留めた画商は、宥めるように、当初の約束どおりの金額を差し出した。
  金を受け取ったハリーは、ドアを開けて外に足を踏み出した。その背中に、「また次の傑作を期待しているよ。ちゃんと払うから、頼むよ。ぜひ電話をくれたまえ」と声をかけた。


  だが、画廊の主の眼は、すぐにキャンヴァスに釘付けになり、舌なめずりするように眺め回した。これで、一儲けできる。ドノヴァンには3,500ドルを払ったが、その何倍もの売値が待っている。彼の心は胸算用で躍った。
  その作品には署名がなかったが、ごく一部の絵画愛好家のあいだで高い人気を博している――が、画壇では名が売れていない――現代画家の作品として十分通用する絵だった。だが、その画家の名前は、ハリー・ドノヴァンではない。
  そう、ハリー・ドノヴァンは「贋作」画家で食っているのだ。
  だが、今回のことは、「贋作詐欺」という犯罪構成要件を充足するものではない。署名がないからだ。
  作品の評価は、あくまで絵の買い手の主観的評価によるもので、売る側はだれも制作者の名前を告げたわけではないからだ。
  作品はむしろ、模倣された画家本人の技法よりも巧みで洗練されていた。絵画愛好家は、好きな画家の「最新の最高傑作」を手に入れたと心から満足するはずだ。だれ一人として損をしない。

  ハリー・ドノヴァンは、ニューヨーク在住の、才能はあるが「売れる絵」を描くことができない不器用な画家の息子。
  ハリーが物心ついたときには、父の小さなアトリエでパレットや絵の具、画架などの画材、絵画集などを玩具にして遊んでいた。画材と名画集のなかで育った。というわけで、ハリーは幼くして遊び半分に、コンテ素描やデッサン、構図取り、色彩感覚、筆使いなど、絵画の技法をあらかた身につけてしまった。
  ところが彼の才能・素質に驚嘆した、父の画家仲間の1人が、年端も行かない少年に、ヨーロッパ絵画史に燦然さんぜんと輝く巨匠(工房)たちの技法と方法論(理論)、そして癖や欠点、個性について、画家知るかぎりのものすべてを教え込んだ。その画家は、ときおり「贋作づくり」や「名画の修復」で金を得ていた。名画の修復は、――贋作づくりもまた――本当の作者の技法や方法論を熟知しなければできない作業だ。
  この「英才教育」の結果、ハリー・ドノヴァンは高校生の頃には、ひそかに、美術史専攻の高名な教授たちよりも、率直に、鋭く、ヨーロッパ絵画の巨匠たちの作品とその贋作や弟子たちによる類似作を見分けるほどの鑑識眼をもつようになっていた。真贋の見極めがついたのだ。
  してみると、ハリーとしては子どものうちに、商売としての絵画取引きやオークションの世界では、絵画作品そのものの質や真贋自体ではなく、むしろ業界の評価や「権威筋」の判断・鑑識判定が物を言うことを、いやというほど気づかされてしまった。

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