さて、絵画などの美術品取引きに参加してくる面々はどういうものだろうか。
まず愛好家。だが、ただ美術品が好きなだけじゃあ、参加できない。資産がなければ。
というわけで、資産家。とくに成りあがり者、成り上がり企業。絵画や美術品は、その見栄えや外観の訴える力によって、成金趣味には最適な飾り物、箔つけ用「資産」だ。
この取引きは、殺伐としたマニーゲイムでもある。そこで、純粋な絵画の愛好家であることと、富裕な資産家であることとは、悲しいかな、めったに両立しないようだ。
巨額の資金を投入できるということになれば、国家を含めた行政機関も、社会の文化資産の確保・保護という名目上の立場で、取引きに参加してくる。
しかしなんといっても、マニーゲイムの専門家、投機筋がこのゲイムの舞台と勝利のルールの決定で一番大きな力を行使する。駆け引きや不意打ちによって、濡れ手で粟の利得を手にすることができるらしい。
そこに、純粋に美術品を見極め、審美する「眼」を曇らせる条件がはたらく。「欲得」「願望」「思惑」といった汚れや歪みの要因だ。が、それがビズネスの最大の駆動力なのだろう。
この映画のエピソードのなかにもある。
ヒガシという日本人画商(ブロウカー)は、韓国や日本の成金に売りつけるという目的で、レンブラント作品の偽造を企み、イアンやデイヴィスと徒党を組んだ。
1990年代はじめといえば、日本はバブル景気で浮かれていた。日本の企業や資産家は、世界中の有力な画商のマーケティングに乗せられ、あるいはオークションで、大金をはたいて巨匠の名画を買い漁っていた。彼らは、世界の美術品取引きの「相場」を一気に吊り上げた。
映画は、そんな日本人をいたるところで皮肉っている。
ブランド性の高い美術品(ほかにもファッションや装飾品もある)をこれ見よがしに所有することは、他者に自分の富や権力の大きさ、つまりは地位の高さを誇示する有効な手段だ。これは、少なくとも600年前のヨーロッパで始まっていた行動スタイル=傾向で、今もって力強く続いている。
バブル期にも、日本企業や日本人資産家は、Japan as bPと持ち上げられて、円高で泡のように膨張した資産を誇示して、買いまくった。
ところが、成りあがり者はいったいに、高い評価の定まった巨匠の作品とか有名な作品を手に入れようとする欲望がひときわ大きい。だが、そういう俗っぽい欲望に駆られて投下する資金や人材、エネルギーに比べて、自らの見識や審美眼を洗練させて、いまのところ評価の定まらない玉石混交のなかから、将来の逸材や秀作を発掘し育てる手立てには吝嗇い。それが業界の実情らしい。そういう先見の明を世に示そうという気概に乏しい。
もっとも、すでにでき上がった権威や評価、価値尺度に寄生して設けようというのがこの商売だから、仕方がないと言えばそれまでだが。
もっとも、それは日本人に限ったことではないようだ。多かれ少なかれ、先進国には共通のことらしい。
欲得や権威の誇示に曇った眼は、ことの真贋を見抜くことが難しいのだ。
であればこそ、この映画がつくられたのだ。
この映画で、ドノヴァンの絵が「レンブラントの最高傑作」に祭り上げられていく過程は、美術品そのものに対する愛着や審美眼よりも、政府も含めた人びとの欲望や思惑、利害駆け引き、果ては騙し合いなどが、絡み合う舞台を見せてくれた。
絵そのもののすばらしさ、美しさ、技巧よりも、それに付帯する巨匠としてのネイムヴァリューとか価格、学術的な権威など、外的な条件によって、経済的現象としての「名画」は生まれたのだ。題名のとおり「インコグニトな絵画作品」が人びとの翌々の絡み合いのなかで独り歩きを始め、フェティシズムが生まれれ膨張していくことで「人類史的な傑作」にまで祭り上げられていく過程を描かれている。
だが、名画なんかを買うという想像すらできない庶民は、美術品の背後にひそむごたごたに気を回すことなく、ある意味で、純粋に絵を楽しむことができる。自分の思ったとおりに感じればいいのだ。作品そのものを味わえばいい。批評家や専門家、鑑定家のご高説はそれとして、自分の好みで美を楽しめばいいのだ。
そのためには、学習と訓練が必要だ。良いもの、悪いもの、たくさん見て比較し、質の高低を見極める眼を養わねばならない。お金をかけずに。だが、人それぞれに好みやその変化・成長というものがある。そのときどきで鑑賞すればいいのだ。
ところで、たとえば茶碗の「楽焼」をめぐる歴史を見ると、世の人びとの美の尺度――共同主観――がどこかで大きく転換することもあるのだ、ということを思わずにいられない。「思い込み」が社会的に普及して尺度を確立すれば、美の見方は構造転換するのだ。バルビゾン派の絵画もそうだ。それまでの美の尺度が無視していたものがこんどは価値の高い美の対象になるのだ。
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