近代文学や映画も含めた演劇では、人は独特の意思や意識の担い手として描かれる。したがって、物語のエピソードや間面は、人びとの絡み合い、個性のぶつかり合いとなり、それはまた、意思や意識の絡み合い、性格のぶつかり合いとなる。
してみると、物語の構造と展開もまた、人びとの意識や意思、思惑あるいは個性の絡み合い、ぶつかり合いによって事件が繰り広げられていく過程として描かれる。
言い換えると、人物ごとにその個性や心理をもたらす部分物語があって、それらが絡み合い、ぶつかり合いながら、大構造の物語(大河)を織りなしていくことになる。それは、これまで述べたことからして、役者たちの演技のかけ合い(絡みあい、ぶつかり合い)によって織り上げられるのだ。
私が大好きな映画作品を例にとって、物語の展開、人物(意思や意識の担い手)配置、絡み合い・ぶつかり合いを考察してみよう。
作品は、日本映画で、岡本喜八監督の《大誘拐》。
物語のあらすじを大雑把に示しておくと、
ケチな犯罪で刑務所を出たばかりの若者3人が、人生の再設計のために、紀州一番の大富豪のおばあちゃんを誘拐して、身代金を奪おうと企てた。で、いざ誘拐してみると、人生の経験の深さ、人間のスケイルが桁違いのおばあちゃんによって誘拐計画を乗っ取られてしまう。
身代金は何と100億円――当初は5000万円の計画――となり、和歌山県警全体を敵に回しての知恵比べになってしまった。
人生が残りわずかと覚悟したおばあちゃんが、「お国」を相手にひと泡吹かせる大冒険となった。誘拐団は、おばあちゃんの見事な采配で、警察やマスメディアを出し抜き、100億円を手に入れた。
この冒険のなかで、若者たちは、おばあちゃんの姿から人生への取り組みの姿勢、覚悟の深さや潔さを学んでいく・・・
というようなストーリーだ。ファンタジックな喜劇である。
物語は、言ってみれば、おばあちゃんが大奮闘する荒唐無稽な喜劇ファンタジーだ。このおばあちゃん、紀州の山林王で大富豪ではあるが、先の戦争で大事な子ども3人の命を奪われた。そして、やがておばあちゃんが死ねば、相続税で(当時)70%の相続税を課され、財産の山林をあらかた国に持っていかれてしまう。
国によって何もかも奪われていくしかない人生の最後に、大誘拐劇を仕立て上げて――特別損失への控除分という形で――実務上の課税率を引き下げさせ、なおかつ富豪家のお坊ちゃんお嬢ちゃん育ちで経営感覚の甘い跡継ぎたちを厳しく教育し直そうとしたのだ。