演技( role-playing / act )とは何か。ロールプレイングとかアクトという言葉からわかるように、登場人物の役割を演じ言動――ある表情や姿形で台詞を語り動作する――することである。一定の状況下での登場人物たちの役割=言動が物語の展開を推し進め、織り上げていく。
以前に考察したように、映画作品では場面の装置や備品・道具、背景設定がリアリティや存在感を与えるために重要になるが、そういうものを背景にした人物たちの言動そのものに魅力がなければ、興ざめである。
観客の感情移入・共感を誘導する力〈 driving forces 〉――観客を引きつけながら物語を駆動していく力――のなかでも決定的に重要な要素こそ、演技なのである。
役柄の上演は、人物の存在感を表現する手段なのである。人物性の表現形態といってもいい。顔の表情や眼差し、声音や話し方、身ぶり手ぶりの仕方だ。俳優がもって生まれた雰囲気や性格というものもあろう。もちろん、経験と学習、努力によって資質や素質を磨かなければ光らない。
■印象に残る演技■
映画作品の実例で考えてみよう。
たとえば、《レインマン》のダスティン・ホフマン。
「自閉症」のレイモンド(チャーリーの兄)の行動パターン、さらにはその精神状態もみごとに演じ切っている。外界からの情報や影響をできるだけ拒否し、自分が馴染んでいる世界だけにとどまろうとするレイモンドの精神的傾向が如実にわかる。
次に《レナードの朝》のロバート・デニーロ。
ロバート・デニーロの迫真に迫る演技とか人物造型の巧みさは、世界の映画界でもすこぶるつきの定評がある。ほかにも《ゴッドファーザー2》、《ミッション》、《俺たちは天使じゃない》と数えればきりがない。
このブログで取り上げた各作品に登場する名優たちもすごい。アル・パチーノ、ジュリア・ロバーツ、ポール・ニュウマン、ロバート・レッドフォード、ロビン・ウィリアムズ…。
日本でも三国連太郎や志村喬、緒方拳、北林谷江…。名優をあげれば、これまたきりがない。
これらの名優の演技のすごさは、どこにあるのか。
役づくり=人物造型はもちろん。存在感と表現力、人物になり切る迫力。人物造形への想像や凋{から生まれた「この人物はこうだ!」という訴求(訴える力/納得させる魅力)の強さだ。
私たち観客から見ると、「うん、そうだろうな。こういう人物ならば、こう動くだろう、こう言うだろう。なるほど!」と感動することになる。というよりも、劇=物語のなかに引きずり込まれてしまう。
つまりは、人物の性格や心性、生い立ちや経験からして必然的に見える言動を演じる技量・存在感である。それは場面ごとに異なる言動として現れるが、登場する全場面をつうじて首尾一貫している。
しかし、それぞれの登場場面で、役者たちは「今、これこれの性格、これこれの心理の人物を演じています」などとは解説してくれない。解説するわけにもいかない。だから、観客がそのように受け取ってくれるように演じて説得するしかない。つまり、彼らは説得的に演じているわけだ。
俳優たちは、演技そのものによって、この人物はこういう性格だ、こういう経験を積んできた、と説得しなければならない。場合によっては観衆に、人物がいる時代や場所、その生い立ちや家庭環境までをも連想させなければならない。
もちろん、映画では、そういうすぐれた演技の背景には、演技や存在感を補い強調するような場面設定や人物配置、効果音などの「道具立て」が用意されている。時代考証や背景設定でのリアリティがとことん追求されている。
言い換えれば、舞台演劇と違って、映画演劇では、場面・背景のリアリティの度合いが高いので、それだけ俳優の演技や雰囲気が場面や背景状況に合致しなければならない。違和感を醸すほどに、浮き上がってもいけないわけだ。
もちろん、喜劇タッチで浮き上がるほどに誇張された演技が求められる場合もある。しかし、物語の展開を壊したり阻止してしまうようではいけない。
こうして、物語の展開・場面設定や演技力は、観客の想像力や観察力を刺激するわけだ。その刺激を受けて観客は引きつけられ感情移入しながら、これからどうなっていくのだろうと期待しながら物語の展開を追いかけ、物語の動きと登場人物演技=言動を注意深く観察し、感じ、分析し関連づけ(総合)をおこなわなければならない。
この分析と総合は、物語の展開方向や背景、状況設定などに俳優たちの演技がどれほど合致、適合しているかを吟味し、評価することでもある。