「サンジャック」オマージュ 目次
宗教、日常生活、巡礼旅
「建前」と「本音」
キリスト教は一神教ではない
聖人列伝の体系
サンティアーゴへの道
人は巡礼をする動物である
長い冒険旅行
聖ヤーコブ伝説
何を求めて巡礼の旅をゆくのか
何を求めて巡礼の旅をゆくのか
 
サンジャックへの道 本編

サンティアーゴ・デ・コンポステーラへの道

  今回は、映画の舞台となったサンジャック・ドゥ・コンポストゥルへの巡礼道と遍路についての讃歌を謳い上げようと思う。フランスからエスパーニャの北西の果ての地までおよぶ巡礼の旅には、私はいたく心惹かれている。で、しつこく、ふたたびオマージュを記し続けることにする。

人は巡礼をする動物である

  私は罰あたりなので、まだ巡礼というものを経験していない。冗談めかせて「日々たどる人生こそ巡礼」などとうそぶいている。
  だからこそ、遍路の苦しさを考えずに、能天気に巡礼に憧れている。巡礼という行為そのものよりは、巡礼の道と道沿いのたたずまい、そして古刹(歴史のある寺院や神社)と茶店や休憩所、そこで働く人びとに。
  日本では、たとえば四国の巡礼道の遍路とか、熊野古道歩きの旅などが、ドラマや旅番組の題材や背景として頻繁に取り上げられる。巡礼の旅こそは、人生への自己省察・内省の旅となるから、人びとの苦悩や心理の変化、絡み合いを描くためには格好の場となるからかもしれない。
  同じように、ヨーロッパでも古来からの巡礼道の旅や風景が物語のテーマやシーンとして採用されることがあるはず・・・と私は思っていた。それも、イェルサレムとかローマへの巡礼ではなく、「鄙びた辺境の旅」の趣があるものを探していた。

  しかるところ、フランスの映画作品のなかに《サンジャックへの道》があることを知った。
  物語は、深く仲たがいをしている兄妹弟を中心とする巡礼仲間の旅を描く。主人公の兄妹弟は、ぶつかり合いながら、互いの個性や生き方を受け入れ、家族の絆を再確認する。そして、巡礼旅の仲間たちの友情がはぐくまれていく。
  個性のぶつかり合い、それぞれの人生観の吐露と衝突・交錯は、いかにもフランス映画が得意とするテーマである。

  聖地への巡礼は、日本とヨーロッパだけでなく、世界のいたるところにあるようだ。
  イスラム圏でもメッカやメジナへの巡礼の旅があるし、インドではヒンドゥー教徒が古代から続けてきた、ガンディス河口への巡礼がある。ティベットにもある。
  日本のように複数の神社や寺院をそれぞれ均等に詣でて回る旅もあれば、イスラム教やキリスト教のように基本的に単一の目的地をめざす旅もある。とはいえ、近代・現代まで続いている巡礼旅は、宗教の教義や原則にかかわらず、それほど厳密に「ただひたすら1つの聖地をめざす」というものではないようだ。
  それにしても何百キロメートルと歩くのだから、ある程度は苦行めいた経験をともなう冒険旅行となって、それをつうじて自分を見つめ直す旅となるという側面が強いような気がする。
  自然物であれ、崇拝・礼拝の対象であれ、苦難に満ちた長い旅によって、信仰心を固めたり、自己浄化や自己省察をおこなったりすることになるのかもしれない。

  冒険的に長い旅をするのは、自らの生物種をさまざまな環境に置いて生き延びるようにしようとする地球上の生命・生物の基本的な傾向なのだろう。人もまたしかり。
  で、歴史上は、制度としての宗教や宗教組織ができてから以降は、長い旅や遍歴という人間本来固有の行動スタイルを、宗教的な帰依や信仰心、精神修養・自己省察などの意味を込めてフォーマライズしたのだろうと思う。組織化された信仰は権威や権力と結びついていて、その分、巡礼旅の安全や旅人の保護・庇護を規範化することもできたのだろう。
  人は旅をする生き物であって、組織立ち制度化された宗教が出現してからは、旅のうちのある部分を巡礼遍路としてカテゴライズしたのではないだろうか。
  つまり、人は巡礼をする生き物なのだろう。

前のページへ || 次のページへ |

総合サイトマップ

ジャンル
映像表現の方法
異端の挑戦
現代アメリカ社会
現代ヨーロッパ社会
ヨーロッパの歴史
アメリカの歴史
戦争史・軍事史
アジア/アフリカ
現代日本社会
日本の歴史と社会
ラテンアメリカ
地球環境と人類文明
芸術と社会
生物史・生命
人生についての省察
世界経済