「サンジャック」オマージュ 目次
宗教、日常生活、巡礼旅
「建前」と「本音」
キリスト教は一神教ではない
聖人列伝の体系
サンティアーゴへの道
人は巡礼をする動物である
長い冒険旅行
聖ヤーコブ伝説
何を求めて巡礼の旅をゆくのか
「聖なる巡礼路を行く」
 
サンジャックへの道 本編

聖ヤーコブサンティアーゴ伝説

  ところで、ここで話題にしている聖ヤーコブは、イエス・キリストの12人の弟子=使徒の1人となったということだから、ローマ帝国=帝政が樹立されてからまもなくの頃に生きていた人物ということになる。ガリラヤ湖の漁師だったが、キリストによって使徒としてスカウトされたという。
  伝説では、やがてローマ帝国の領土となったヒスパニア(イベリア半島の地中海沿岸地帯)方面に伝道活動をおこなったのちに、イスラエルの地に帰還した。だが、ユダヤの王、ヘロデによって処刑されたという。つまりは、中東の地で死没した。

  ところが、中世ヒスパニアの民衆伝承では、サンティアーゴはイスラエルの地に戻らず、ヒスパニアにとどまって各地で伝道活動を終生続けたという物語になっているらしい。そして、イベリアの北西の果て、ガリーシアの地で歿し、そこに葬られたという。
  また一説には、イスラエルで死没したのち、遺骨が伝道活動したヒスパニアのガリーシアに送られて、墳墓に埋葬されたという。
  この伝説は、その後、レコンキスタ(再征服運動)によってイスラム勢力をイベリアから駆逐しようとていたガリーシアやレオン、カスティーリャの君侯によって政治的に利用されることになった。異教徒討伐運動のシンボルとして、つまりは、再征服戦争にキリスト教派領主や民衆を動員するために、サンティアーゴ墳墓(遺骨)伝説はキリスト教徒の政治的・イデオロギー的アイデンティティの旗印として利用されることになった。

  イベリア半島の北西の端のサンティアーゴの地が、デ・コンポステーラを冠した地名になったのは、そこが「地の果て」とでも言うべき最果ての地だから、とか、巡礼遍路の最終到達点だから、ヤ―コブが最後に行き着いた地だから、などいろいろな説があるらしい。エスパーニャでは一般に「地の果てサンティアーゴ」というような意味合いで語られているという。そして、コンポステーラには何かを完遂したと、最終目的地まで行き着いたという誇らしい意味もあるようだ。

  映画にもあるように、サンティアーゴは、こうした人びとによって、没後800年を経て、本人とはまたく無関係の「ムスリムの虐殺者・討伐を鼓舞する者」としての地位、イスラム教徒殺しの守護聖人に祭り上げられてしまった。
  ガリシア地方の君侯、さらにはレオン・イ・カスティーリャの王権によって、墳墓とされた遺構は祀られ、近くに大規模な修道院(院長は司教=伯爵の地位をもつ)が建設され、そこにはヨーロッパ各地から聖職者・修道僧や信者たちが参集した。彼らは長い遍歴を経てこの地を訪れて、サンティアーゴの秘蹟を礼拝した。
  9世紀にはガリシア地方やレオン地方、カスティーリャ地方からの巡拝の人びとが訪れるようになった。
  やがて、イベリアでの異教徒討伐=十字軍運動を支援するために、ローマ教会=教皇庁がサンティアーゴ・デ・コンポステーラを巡礼の聖地として認めた(10世紀半ば)。イェルサレム、ローマに次いで3番目の巡礼聖地の認定ということになる。

  それからは、山賊や野盗、悪辣な領主たちがひしめく危険な悪路を、遠くから巡礼に訪れる信者たちが激増したという。山賊による襲撃や領主による妨害(高い通行税を課す場合もあった)にもかかわらず、多くの人びとが遍路したという。一般には近隣の君侯領主やローマ教会、集落などによる保護を受けたようだ。巡礼者を手厚く支援する聖職者の活動もあったようだ。それでも当然、旅の途上で運悪く殺されたり、病死したりする人びとも多かったという。

前のページへ || 次のページへ |

総合サイトマップ

ジャンル
映像表現の方法
異端の挑戦
現代アメリカ社会
現代ヨーロッパ社会
ヨーロッパの歴史
アメリカの歴史
戦争史・軍事史
アジア/アフリカ
現代日本社会
日本の歴史と社会
ラテンアメリカ
地球環境と人類文明
芸術と社会
生物史・生命
人生についての省察
世界経済