「サンジャック」オマージュ 目次
宗教、日常生活、巡礼旅
「建前」と「本音」
キリスト教は一神教ではない
聖人列伝の体系
サンティアーゴへの道
人は巡礼をする動物である
長い冒険旅行
聖ヤーコブ伝説
何を求めて巡礼の旅をゆくのか
「聖なる巡礼路を行く」
 
サンジャックへの道 本編

何を求めて巡礼の旅をゆくのか

  それにしても、人びとは何を求めて苦難の長い巡礼の旅に出るのか。
  中世であれば、自分の信仰心=アイデンティティを確かめるため、自分に苦難を課すという答えが提示されるかもしれない。ただし、当時の人びとの心性には現代人のような「個人としての自分」というようなアイデンティティはなかったという。
  しかし、それは型どおりの「事象の上っ面」をなでるだけの「答え」にすぎない。
  社会学や社会史は、宗教とか信仰の奥にある人びとの「生の欲求」「目的」まで掘り下げなければならない。
  「信仰」とか「宗教」というのは、外形にすぎない。人びとは宗教や信仰心というものに何を期待・仮託したのだろうか。
  宗教というものが、およそ人びとにとって受動的な教条や束縛でしかないものであるというなら、そういう答えも成り立つだろう。だが、それが「心の安定」や「精神的平穏」であっても、そのことによって日常生活を送り苦悩や労苦に耐える何ものかを得られるとしたら、それはそれとして「見返り」である。

  巡礼の旅は、苦難と危険に満ちたもので、日常生活の労苦や悩みや恐れなどとは次元の違う試練であっただろう。しかも、日常生活が宗教によって影響され、規制されたものであれば、そのような日常の次元に属する宗教や信仰の実践とは異なる何かを得るためのものでなければならない。
  そうでなければ、苦難を続ける意味がないし、苦難に耐え続ける意欲や動機を保つことはできないだろう。

  まして、現代社会の人びとが巡礼に挑戦する(耐える)目的は何だろうか。
  たしかに、映画《サンジャックへの道》が描くように、巡礼の参加者は、はじめはきわめて現世的で世俗的、自分の都合や利害に促されて、巡礼の旅に踏み出す。
  だが、1000キロメートル、延べ1か月以上の長く苦しい旅を続けるうちに、自らに「何のためにこんな苦労を引き受けたのか、続けるのか」という疑念に駆られるに違いない。
  映画作品では、宗教的・信仰心上の理由をもって巡礼の旅に出た者は、1人としていない。
  死去した母親の遺産を受け取る資格を得るためとか、憧れの女性と親密になるチャンスをつかむためとか、失読症を克服するためとか、進級の記念として何か達成感を得たいとか・・・などである。そして、旅のインストラクターにしてからが、それなりに高額の報酬を得るためだった。
  ところが、苦しい山岳の道をゆく苦難に耐え、足の痛み(マメや筋肉痛)に耐え続ける意味を、まさに旅を何日も続けるうちに自らに問いかけるようになる。
  してみると、人びとははじめにそう意識するわけではないが、日常生活を離れて特殊な苦難に耐える日々のなかで、人生とか生き方とか、日常生活のリズムのなかでは切迫感をもって深く考えないことを考えるために旅を続けるということになるようだ。
  それが、「日常性からの脱却」ということなのだろう。
  楽チンな旅では、この脱却が今一つというか、かなり浅くなるので、難路を歩き続ける旅に出るのかもしれない。

前のページへ || 次のページへ |

総合サイトマップ

ジャンル
映像表現の方法
異端の挑戦
現代アメリカ社会
現代ヨーロッパ社会
ヨーロッパの歴史
アメリカの歴史
戦争史・軍事史
アジア/アフリカ
現代日本社会
日本の歴史と社会
ラテンアメリカ
地球環境と人類文明
芸術と社会
生物史・生命
人生についての省察
世界経済