ブックはサミュエルと別れを惜しんでから、直した車を運転してエリの農場から出ていきます。
この一連のシーンは、おそらくレイチェルの目から見た光景として描かれているのでしょう。
遠ざかっていくブックの車は、こちらに道を歩いてくるホッホライトナーとすれ違います。アーミッシュの農夫はブックに別れの挨拶を送りました。
去りゆくブックと近づくホッホライトナー。
このラストシーンは、レイチェルの人生のこの先を暗示する場面です。
映画が描くように、アーミッシュの生活は、現代アメリカ文明のなかに取り囲まれながら営まれています。
そして、美しい田園風景と穏やかで一風変わったアーミッシュの生活の場=集落は、珍しい風景とか歴史の古い街並みが人気を呼ぶのと同じように、人気の観光地になっています。
この作品に描かれたように、不躾で低俗な興味本位でタウンを訪れる人もいるし、現代文明が快適さや「豊かさ」と引き換えに失った「かけがえのない何か」を求めてやって来る人もいます。
現代アメリカ文明がアーミッシュ村の生存環境であるかぎりで、相互に影響をおよぼし交流がおこなわれるのは避けられないようです。
いい意味でも、悪い意味でも相互作用、ことにアーミッシュへの影響はあるでしょう。
アーミッシュは宗教的に「再洗礼派」または「完全洗礼派」――アナバプティスト――のプロテスタントに属すということです。
なので、そのコミュニティに生まれ育った子どもたちは、乳幼児のときに受ける「受動的な洗礼」とは別に、成長してから自己の判断にもとづいて自発的に「完全な洗礼(再洗礼)」を受けて、「本当のアーミッシュ」になるといいます。
してみれば、そのときに、若者自身の自発的な「生き方」の選択があるわけで、アーミッシュの生活から離脱する若者もいるでしょう。
最近の統計では、アーミッシュの1家庭あたりの平均の子どもの数はだいたい7人だといいます。
全員がアーミッシュになるとすれば、アーミッシュの人口はきわめて急速に膨張するはずで、現在のアーミッシュ人口(推定でアイオア州で5万5千、ペンシルヴェニア州で3万9千など)よりもはるかに多くなるでしょう。
なるほど、子だくさんのアーミッシュはアメリカでも人口成長率が最も大きいマイノリティではあるようです。
だが、子どもたちが成長して全員がアーミッシュの生き方を選ぶわけではないことも確かなようです。
そこで、私の疑問は、外界の世界の情報はどのように、またどのような量的規模でアーミッシュたちに届いているのか、ということです。
アーミッシュの世界にも出版事業はあります。基礎教育(学校)でも、現代文明のことは、ある程度は、子どもたちに教えられるでしょう。
勤勉なアーミッシュは読書もする(濫読はしない)だろうから、少なくとも書籍では、外部世界の情報が伝わるはずだと思うのですが。