18世紀、19世紀以来のヨーロッパの社会規範――実際には、そのなかから特定の価値観や歴史的経緯のなかで選択・選別されたもの――が維持されているということで、「家父長制的」な行動スタイルや心性、価値観が支配的なように見えます。
典型的なものには、
若年者は年長者(長老)に従順であるべきこと、
女性は男性に(ことに妻は夫に)従順であること、
それと引き換えに、年長者は若年者への保護と尊重、男性は女性への保護といたわりを提供しなければならない、
などという規範があるとか。
これに関連して、家庭で男性の権力・権威が強いということから、児童虐待や女性へのドメスティック・ヴァイオレンスを懸念する立場もあるようです。
しかし、彼らのいったいに穏やかな行動・発言スタイル、つまり非暴力主義や全面平和主義の規範とか、さらに大家族主義(何世代も一緒または近隣に生活して影響し合う親族単位を構成する)が防波堤になってるようでもあります。
ただし、アメリカは現代文明の最先端地域です。
そこにあって、現代文明の装置に分厚く取り巻かれて生活するかぎり、その影響が悪しき面で浸透してくるのは避けられないようです。
核家族化や大量消費文化、マスメディアの影響を受ける程度にしたがって、暴力的な逸脱現象も起こるらしいです。あるいは、故郷を出て現代風の仕事や生活に憧れて出ていく若者もいるようです。
こうして、アーミッシュを一枚岩として一括りに理解することはできないようです。
いずれにしろ、競争や利己主義、欲望礼賛の現代社会のなかで清貧に高潔に生きるのは大変だと思います。
地球環境問題や生態系の危機が叫ばれる今日、彼らの「旧い生活様式」はむしろ人類文化の最先端を走っているのかもしれないですね。
さて、話を物語に戻しましょう。
馬車に乗って村を出たレイチェルとサミュエルの母子は、最寄のアムトラク――アメリカ鉄道公社――の駅から、フィラデルフィアを経由してボルティモアに行く予定でした。レイチェルの姉の家に行くために。
はじめて列車に乗るサミュエル。
列車の窓から眺める風景は、アーミッシュ村の小さな世界に暮らしていてめったに外部世界に出ることがないサミュエルにとって、どれも目新しく新鮮だったに違いありません。
ところが、フィラデルフィア駅に着いてみると、目的地行きの列車は3時間以上の遅れになっていました。長い待ち時間をこの駅で過ごすことになりました。
そして、サミュエルが手洗い(ボックストイレット)にいたとき、殺人事件を目撃してしまったのです。
銃や武器のない、平和で非暴力のアーミッシュの世界から外へ出たとたん、銃や武器、そして欲望が野放しの現代アメリカの暴力の世界に巻き込まれてしまったのです。
さいわいにもサミュエルは、機転を利かせて殺人者たちの目をかろうじて逃れることができました。
ところが、殺人事件は市警に通報され、サミュエルとレイチェルは、「目撃証人」としてフィラデルフィア市警の尋問と保護を受けることになります。旅程はすっかりくるってしまったのです。
事件は、麻薬事件のために潜入捜査( under-cover )をおこなっていて重要な証拠や手がかりをつかんだ刑事が、2人の男に殺されるというものでした。手を下した男の1人は黒人でした。