ブックがめざしたのは、レイチェルの義父、エリ・ラップの農場です。
ブックはラップの農場入り口までたどり着いて意識を失います。車は草原に突っ込み、鳥の巣箱を壊して止まりました。
重傷のブックは、ラップと同胞の手当てを受け、匿われることになりました。
ところが、この村にはテレヴィもラディオも、そして電話もありません。そもそも電力が供給されていないのです。新聞も近くの町まで行かないと入手できません。
現代文明を支えるインフラストラクチャーとかマスメディアやマスコミュニケイションとは隔絶した、独特の生活空間をなしているのです。
一方、シェイファーは警察署長の権限を利用して、警察組織とマスメディアを動かして、ブックとレイチェル母子を追いつめる手を打っていきます。
ところが、現代文明の装置としてのテレヴィ・メディアや電話などがまったくないアーミッシュ村のありようは、マスメディアを駆使するシェイファーら(警察)の捜査(ハンティング)の手法をも阻むものです。
それゆえにこそ、ブックは母子を隠し、自らも身を潜める場所に選んだのかもしれません。
さて、傷が癒えたジョン・ブックは、アーミッシュの人びとに溶け込んで暮らすことになります。
映画では、電力やガソリンエンジン、化学肥料や農薬を使わない農業や村人の生活の一端が描かれていきます。
家族は夫婦とその子どもたちからなる2世代が自立的な家族単位になっている――そのかぎりではアメリカ化されている?――ようです。が、夫婦の親の世代や兄弟などの近親者あるいは近隣の人びととの交流・絆もまた強いようです。
映画で描かれたシーンで見るかぎりでは、農耕(農場の運営)もまた、直系2世代ないし3世代家族を中心とした経営単位となっているようです。
ところで私はアーミッシュの生活の実際の様子は知りません。この作品がアーミッシュの実際の生活をできるだけありのままに描いている(脚色が少ない)と想定して、彼らの生活をイメイジしています。
想定が間違っていれば、イメイジは的外れになるでしょう。
アーミッシュ村の生活は、現代の機械文明の装置を使わない農耕を基礎としています。そして、農業活動の繁閑は季節のリズム(自然の暦)に沿って動いています。
繁忙期には家族総出で、さらに近隣の家族と互いに助け合っているであろうという様子はうかがうことができます。
人工的な動力源を使わない農村にあっては、人びとの助け合い、村落住民共同体の連帯意識や協働の絆が、生き延びるための不可欠の条件です。
家族や住民どうしの信頼関係や親愛・親密さは自然に生み出され、またそれなくしては生き延びることができないのです。