映像物語と音楽 目次
原題
見どころ
あらすじ
田園の奇妙なコミュニティ
アーミッシュ
ドイツ系移民
生活スタイル
アーミッシュもいろいろ
現代社会とアーミッシュ
「暴力の世界」の目撃
フィラデルフィア
警察組織の犯罪
アーミッシュとともに暮らす
プレインライフ
アーミッシュ村の「異邦人」
鬱憤と憤怒
越えがたいギャップ
ブックの決意
対  決
暴力と非暴力
ラストシーン
現代アメリカとアーミッシュ
情報環境とアーミッシュ
作品理解の壁  言語文化の限界か

◆情報環境とアーミッシュ◆

  とりわけITテクノロジーが発達した現代アメリカ社会で、アーミッシュたちを取り巻く「情報環境」はどうなっているのでしょうか。
  コンピュータは電気機械ですから、多くのアーミッシュたちは設置や利用を拒否しているのでしょうか。この作品が制作されたのは、今から20年ほど前ですから、今はどうなってるのでしょう?

  今私たちは、《IT技術万能神話》のなかで、「より新しい情報」「より詳し情報」を求めてあくせくしています。企業の経営でも、より進んだ情報武装をしないと、生き残れないと信じられています。
  要するに《IT神話》《情報神話》という共同主観に呪縛されて、私たちは生きています。それが、正しいのか、人間にとって適切なのかということを厳密には検証しないままで。ほかの生物と同じように、生存競争に明け暮れ、目先の競争で生き残ることばかりを考えて暮らしています。

  本音を言うと、IT技術に詳しくない私としては、「コンピュータやネットワークを使う」というよりも、「私自身の方が部品化されてITネットワークに従属している」という感覚の方がずっと強いのです。
  むしろ自立性を失ってきていると感じています。だのに、ますます依存し、すがりついていくしかない運命=環境に囚われている、と。

  そんな神話に意識を拘束されて生きている私は、いまだに多くのアーミッシュがIT情報世界の外部に自覚的にとどまっているのなら、それは「とても大事なこと」「残すべき価値観」だと思います。
  というのは、情報伝達装置としてのITテクノロジーは洗練されているけれども、それを扱う人間の意識や品性は、以前のままか、ひょっとしたらさらに陋劣になっているような気がするからです。
  悪意もまたITによって拡大増幅して広がっているように見えるからです。
  情報ネットワークの膨張と情報発信者の匿名性などによって。

作品理解の壁  言語文化の限界か

  さて、このあとの部分は、私の勝手な「言いがかり」で、どうでもいいことです。 そして、作品の側ではなく、私たち、見る側の問題点というか限界についての問題です。

  洋画(ヨーロッパとアメリカの作品)を楽しむうえで、とりわけ私たち日本人には根本的な欠陥があります。《言語文化》の壁です。
  その1例がこの作品です。
  物語と事件の主要舞台は、アメリカ合衆国ペンシルヴェニア州フィラデルフィア市とアーミッシュ村。
  物語は、ある殺人事件を目撃したアーミッシュの子どもとその母親の安全を守るために、フィラデルフィア市警の刑事が奮闘するというもの。
  殺人は、市警の刑事グループ(幹部を含む)によるもので、警察組織内部での押収した麻薬の横流しなどの腐敗の発覚を封じるためのものでした。
  事件の進行のなかで、刑事ジョン・ブックと子供の母親との恋模様などが織り込まれていきます。

  さて、この物語では、「フィラデルフィア」という地名、つまり「同胞愛」とか「友愛」、という地名の意味が、物語事件の性格づけにとって大きな意味を持っています。あるいはアーミッシュ共同体の仲間意識というものが、物語や人間関係を描くうえで大きな意味合いを持っています。
  ですが、「フィラデルフィア」というヨーロッパ(ギリシア語)に起源をもつ言葉の意味については、私たち日本人はまず知りません。
  私はたまたま仕事の仲間だったアメリカ人からこの都市の名称の意味を教えてもらったことがあったので、どうにか「なるほど」と理解したことはしました。
  この物語は、大都市フィラデルフィアに代表される現代アメリカ社会とアーミッシュ村の世界とのコントラストが背景の1つになっているのです。そこで繰り広げられるできごとが描かれるわけです。

  1つは、フィラデルフィア市警の腐敗。
  これは主人公の刑事ジョン・ブックから見ると、同僚の裏切りであって、フィラデルフィア=仲間の信頼や友愛という地名とは逆説になっているのです。友愛の町で、ひどい裏切り、権力犯罪がおこなわれます。

  もう1つは、アーミッシュ村の住民たちの友愛、同胞愛です。
  現代文明の装置や文化から自覚的に切り離れた生活スタイルを守り続ける地方住民集団が、アーミッシュです。彼らは独特の信仰と生活スタイルによって、周囲の現代アメリカとは距離を置いています。

  この2つの世界を描く物語において、フィラデルフィアは「鍵」になる言葉です。     アメリカ人でもちょっぴり教養があれば、あるいはアメリカ独立の歴史を学校で習っていれば、フィラデルフィアの意味を知っています。
  その名前のとおり、イングランドへの従属を断ち切るために、アメリカの植民地諸州が同盟(大陸評議会を結成)して、合衆国独立闘争の基盤を据えた場所なのだ、ということは知っています。東部諸州の同胞=国民としての連帯と絆を築き始めた場所であるということを。
  ヨーロッパ人でも、少し教養があれば理解できるでしょう。

  アーミッシュ村は合衆国のあちらこちらにあるのですが、教養ある制作陣としてはおそらく、事件が起きる場所の設定はフィラデルフィアしかないと判断したのでしょう。というのも、この物語のキイとなる語は「友愛」や「信頼」、「仲間意識」なのだから。

  「フィラデルフィア」の意味を知ってるかいないかで、この映画作品のついての見方や洞察は大きく変わるはずです。その意味では、私たち日本人にとって、映画の鑑賞とか理解にとって、言葉の壁はきわめて大きな障壁といえます。

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