1914年、ヨーロッパを主戦場とする第1次世界戦争が勃発した。ヨーロッパの列強諸国家の軍事的敵対はまたたくまに世界各地に飛び火し、植民地支配体制は大きく揺らぐことになった。
言い換えれば、ヨーロッパにおいて圧倒的だったブリテンの覇権、すなわち大がかりな戦争を抑止するはずのブリテンの力に陰りが見え、いたるところに力の空隙が生じてきていたということだ。
世界的規模での戦争となったことから、ブリテンの敵対勢力は、世界各地で、ことにブリテンの植民地支配に蹂躙された諸地域で原住民民衆にブリテンの支配の不当性を訴え、反乱や抵抗を教唆し。さらにそのための援助をおこなった。
そうなると、すでに植民地世界帝国を維持するためのコストをまかないきれなくなり始めていたブリテンは疲弊し、世界的規模でのブリテンの帝国的な植民地支配の仕組みが動揺することになった。
そのうえ、ヨーロッパ大陸でのドイツ帝国の戦争能力はすこぶる大きかった。そのため、ブリテンは戦争に動員する資源の確保とか、兵員補充、後方支援――兵站管理――のために、植民地側の支援を求めることになった。
その植民地側では、それゆえ原住民たちの発言力が強まることになった。
したがって、ブリテン本国はあれこれの側面で大幅な譲歩を示すことになる。とりわけ、巨大な資源・資産の源泉だったインド植民地の態度は、戦況の行方を左右しかねないほど大きかった。
しかも、インドでは国民評議会派とムスリム同盟との協力・同盟関係が強化されてきていた。
もはや従属的な植民地統治ではなく、インド亜大陸での主要な統治実務をインド人たちに担わせようというブリテン政府の妥協策も提起されるようになったもとより、インド植民地を死守せよという世論も相変わらず幅を利かせていた。
ブリテンの支配層=エリートのあいだには、インド植民地の将来構想をめぐって対立があったわけだ。インドの統治をどうするかをめぐって、開明派と守旧派との鬩ぎ合いが繰り広げられていた。
ガンディがインドに帰ったのは、そういう状況下だった。
すでに、南アフリカでの運動によって制限つきながらインド人の市民権確保への道を開いたことで、彼はインド独立をめざす諸勢力からは「英雄」としてあつかわれていた。つまりは、インド独立運動に新たな指導者を迎えようという気運が盛り上がったのだ。
とはいえ、インドにはすでに独立運動の既成の組織と指導層――いくつかの勢力=政派とその指導部、そして指導部のあいだの同盟――が形成されていた。という意味では、すでに運動には独特のヴェクトルがはたらいていて、ガンディというカリスマ的個人が加わったからといって、その方向がただちに変わるというものではなかった。
そのときの独立運動の担い手、国民評議会派は、多数派のヒンドゥ教徒とムスリム連盟が主要勢力だったが、シーク教徒やジーナ教徒も加わっていた。ヒンドゥの指導者は、若いネルだった。
ムスリム連盟の指導者はムハマード・アリ・ジンナ。
映画では、当初必ずしもジンナは、ガンディの非暴力=不服従の思想=行動スタイルには賛成ではなかったかに描かれている。というのも彼は、合法的な運動だけでなく、自然発生的でときに粗暴な抵抗運動や反乱・蜂起をも必要な闘争形態と見なしていたからだった。粗暴な抵抗は、多くの場合、植民地政府の抑圧によって強いられた反応だからだった。
やがてジンナは、ガンディの方法論を受け入れたが、それでもやはり一歩距離を置いていたように見える。
ネルもジンナもインド在来の特権的富裕層の出自で、貴公子然とした端正な容姿をしていた。