映画や小説、音楽などの創作物=芸術作品(工芸作品も含めて)は、つまることろ、私たち人間が「なにものであるか」を語るための形式であるようだ。それは、自然科学や歴史学や社会科学などにも当てはまることなのだが。
内容が、現実の世界から遠いフィクションやファンタジーであっても、意図するとしないとにかかわらず、芸術作品は制作者が自分たちが「なにものであるか」を語るものだ。つまるところ、それは自分たちが「なにものであるか」という自己イメイジの投影なのだ――もちろん、そのイメイジは変形され、ときには転倒したり、歪められたりしていることもあるのだが。
というのは要するに、物語や思考は、私たち人間とはそういう内容を想像したり意識したり、認識したりする存在であるということを表現するからだ。「事実」であるかどうかは、この本質を左右するものではない。
今回取り上げるのは、アメリカのSF作品『K−パックス』(2001年)。原題は K-Pax で、意味は「K−パックスという、太陽系外の惑星系の文明の名称」だ。パックスはラテン語で、休戦協定とか和平、平和を保つ秩序を意味する語。この原題は、日本語にすると「Kの平和秩序」というような意味になるだろう。
原作は、ジーン・ブリュウワーの同名のSF小説 Gene Brewer, K-Pax, 1995 だ。
「K−パックス」という名称は、この物語に登場する異星人が英語に翻訳した場合の呼び名なので、地球文明の英語で表現すれば、ということだ。物語は、乱暴に一言で表すと、宇宙人の心性(精神構造)を描いている。
ところで、「K」という語は英語圏では、聖なるものに対して敬虔な態度で接する――たとえば聖体拝領での聖物への接吻など――を意味するので、「聖なる宇宙の摂理を信奉することによる宇宙平和」というような含意も、あるいはあるのかもしれない――もちろん私の勝手な解釈にすぎないが。
それにしても「平和」と名づけるところに、その地球外の宇宙文明のありさま――原作者の希求――が反映されているのかもしれない。
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