「演技が真に迫っている」と感じるということは、どういうことか。
「そういう性格・来歴・心理の人物であればいかにもそういう言動をするだろう」と、私たちが納得(同意)するということだ。言い換えれば、物語全体をつうじてある人物のあれこれの言動は、一定のキャラクター・ペルソナ(人物像)を描き上げるための個々の部品なのである。それらの部品は、――矛盾や不合理に満ちた人格を描くとしても――ある首尾一貫した流れ・傾向性のなかに位置づけられていなければならない。
登場人物のペルソナ、アイデンティティ、自己同一性といってもいいだろう。
つまり、人物についてのイメイジと演技(の持続・累積)とは、「必然的」な連関を持たなければならない。あらゆる場面での言動は、ひとまとまりのペルソナの構成部品なのだ。その部品どうしに不整合があれば、ペルソナは破綻する。人物像は私たちの頭のなかで像=焦点を結ばなくなってしまう。
その人物の性格や心理にとって不似合いな言動が少しでもあれば、私たちの心のなかでやはり違和感を感じたり、イメイジした人物像に揺らぎが生じたりしてしまう。「あれはおかしい」と。
要するに、物語のなかでは人物のアイデンティティ(自己同一性)が保たれていなければならない。
もとより、そのような性格・心性の人物が、あの場面ではなぜそのような言動をしたのか、と観客に考えさせるような問題提起をあえておこなうようなこともあっていい。たとえば、大きな衝撃のために異様な行動をとるとか。しかし、その場合でも、その人物のそういう性格・心理からして、そういう衝撃にはそのように反応する、という見立てが役者の側になければならない。
そうなると、脚本には一般的・概括的に書かれているのだが、より細部にわたって具体的に、映画の制作陣が設定した人物像にきっちり整合・適合するように、役者たちはしかるべく演技――言動所作だけでなく、雰囲気やかすかな表情や雰囲気の表現――をしなければならない。
人物の心理や心性・性格に応じて、あらゆる所作について、いかにも内発的で自然な言動となるように演技すべきだという方法論として《 スタニスラフスキー・システム 》というものがある。
1930年代にロシアの演劇人(俳優・脚本家・演出家)、コンスタンティン・セルゲーイヴィッチ・スタニスラフスキーによって提唱された演技方法論が基本となって、1960年代のハリウッドで演技方法論(
methodical-acting-theory )として精緻化された考え方だ。
ある特定の人物像=ペルソナは、固有の心理や性格、生い立ち・家庭環境、経験の集合からなっている。俳優はそういう人物像にとって自然で必然的な演技を、あらゆる物語の場面で首尾一貫して系統的におこなわなければならない。すなわち人物設定のリアリティを根拠づける演技、立ち振る舞い、所作を考え出し、実践する方法論である。
演技技術を高めるためには訓練・練習が必要だ。けれども、同じせりふや動作、それに込める感情などを何度も反復練習すると、どうしても技巧的な匂いが染みつく(つくりものめいてくる)。誇張や単純化も生じるかもしれない。
だが、練習や訓練なしに演技すると、ぎこちなかったり、表現不足になる。
してみると、何度も訓練したうえで、しかもはじめておこなったような新鮮な演技に見せなければならない。
そのためには、動作やせりふの訓練よりも、役者が、その場面・状況で、その人物の心理や心情になり切るしかない。つまり、芝居の稽古そのものよりも、心理分析や精神分析、性格洞察がより重要になってくる。
というよりも、演技の稽古は、そのような心理分析、性格洞察の基礎の上に立って組み立てられなければならない。あるいは、稽古で脚本が指示する言動をおこないながら、それはどのような心理・性格から来るものかを分析、追体験することになる。
してみれば、人物の心の動きや性格・心性の場面や状況に応じた変化・対応のありようを研究・考察する必要が高まる。
俳優は、台本・脚本を読みながら想像力をはたらかせ、自分が演じる人物の来歴や経験、心理や性格・心性を深く洞察し、せりふや行動の奥にある人物の心情・心理をつかみ、そこからくる行動パターンや反応スタイルを読み解かなければならない。
つまりは、演技のマインドコントロールをするわけだ。演技を人物の心理や精神のありように照応しておこなうというわけだ。