第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群
この節の目次
イタリアでの紛争に域外の君侯が介入してきたことを契機として、教皇庁が王権や君侯どうしの勢力争いの対象――駆け引きのためのチェスの駒――となってしまった。14世紀はじめ、ヨーロッパ全域に普遍的権威を誇示していた教皇庁もフランス王権によって統制され、アヴィニョンに移転した。
これに対して、フランス王権に対抗する神聖ローマ皇帝やイタリア諸都市の画策で、教皇庁のフランスからの離脱とイタリアへの復帰が試みられた。各勢力はそれぞれに教会と教皇の権威を利用しようとしていたのだ。
この過程ではそれぞれの陣営が教皇位の後継者を擁立して、一時的に2人または3人の教皇が登壇・対立し、ローマ教会組織もまた分裂することになった。このような教会の分裂・紛糾と対立で、その権威は失墜した。
ようやく15世紀に教皇がローマに帰還したときには、教皇庁は、ほかのイタリア諸都市と並ぶ1都市にすぎないローマの特殊な地方的君侯権力として活動していたにすぎなかった。しかもヨーロッパの各地では、ローマ教会の普遍的権威を分断するように、君侯権力による国家形成が始まっていた。
新たに勃興した王や君侯は領域的支配を求めていたので、域内で王権の権威をより強烈に浸透させることができる教会権威を必要としていた――イタリアのローマ教皇庁の権威になびくのではなく、ガリア(フランス)やイベリア(カスティーリャ)など域内の権力=王権になびく教会組織を。
14世紀半ばから15世紀半ばまでのイタリアの歴史は、絶え間のない戦乱の歴史だった。はじめは戦乱の大部分は地方的紛争だったが、やがて全面戦争に拡大し、15世紀には、半島のあらゆる都市国家を巻き込んだ闘争になった。
戦争が日常化するとそれは巨額の財貨が動く事業経営の集積、つまり産業になった。明確な組織形態をもつ暴力装置としての傭兵団が出現し、それは compania di ventura (運任せの冒険的な無頼仲間)と呼ばれた。
傭兵隊長の多くは、アペニン山地やロマーニャ地方出身の目ざとい荒くれ者たちだった。彼らは近隣の山岳部の村人を雇って私兵団をつくり、移動中に無頼漢を集めて組織を拡大し、平野部の軍備をもたない富裕な諸都市と契約を結んで戦争を請け負った〔cf. Proccacci〕。
城壁で市域を囲った諸都市のあいだの戦争は、開けた平野での会戦ではなく、小競り合いと駆け引きをともなう長期の包囲戦――それゆえ籠城――を主要形態とする消耗戦だった。この消耗戦は、都市が支配できる資源を何か月にもわたって総動員する戦争であり、とてつもなく金のかかるものだった。それゆえ、都市の軍事的・政治的独立は、年を追うごとにますます大きなコストを要するようになった。
ピーサ、パードヴァ、ボローニャなどの有力都市ですら、そのコストに耐えかね、ついには独立を放棄せざるをえなかった。ジェーノヴァでさえ、あるときはヴィスコンティ家に、あるときはフランス王権にと、状況に応じて強力な君侯・王権の庇護を求めた〔cf. Proccacci〕。
ピーサの歴史を見ておこう。
11世紀には第1回十字軍に参加して大艦隊を派遣、地中海東部に数多くの植民地や属領を獲得した。これらを拠点に地中海での貿易を拡大した。
一方で12世紀半ば、ピーサは躍進を始めた。それまでの都市集落の北西に隣接していたローマ帝政期の都市遺構を中心に大聖堂 duomo を建設し、東側に発達した商業地区とアルノ河南岸の集落 borgo を取り込む形で市壁を拡張した。
ところが、地中海貿易での権益拡張競争に突入してルッカ、フィレンツェなどの有力諸都市と抗争することになった。とりわけジェーノヴァとイタリア半島西側の制海権をめぐって争うことになった。
1284年にはリヴォルノ沖の岩礁メローリアの海戦でジェーノヴァの艦隊に手痛い大敗を喫した。艦隊のほとんど失ったうえに、コルシカ島の領有権とサルデーニャの権益をジェーノヴァに引渡し、回復不能な打撃をこうむった結果、その後低迷することになった。
そしてついに1406年、フィレンツェとの戦争に敗れて併合されることになってしまった。
15世紀半ばにはイタリアでは、多数の――それまで200ほどもあった――きわめて小規模な弱小都市国家がより少数で大規模な強力な都市国家の支配領域に吸収されてしまった。だが当時、この支配領域は明確な国境によっては仕切られていなかった。比較的大きな都市集落は城壁で囲まれていたが、その周囲は農民村落や開放的な田園、草原、荒蕪地などでおおわれ、支配領域の辺境あるいは縁辺をなしていた。
力関係が変化すれば、互いに容易に相手の勢力圏に踏み込んで支配することができるものだった。つまり勢力の境界の画定はあくまで一時的、相対的なものにすぎなかった。
14、15世紀はヨーロッパ全体の危機の時代、言い換えればひとつの地域や都市での危機がまたたくまにいたるところに連鎖的に波及する時代だった。
発達した貿易路をつうじて、有力都市から周辺へと、景気循環の波――不況の波――が時間差を置いて波状的に各地の諸都市に広がっていった。ヨーロッパの各地方が、それぞれの度合いで世界市場的連関のなかに絡めとられていく過程にあったのだ。
経済的危機の原因は何でもありだった。穀物の不作、都市暴動、戦争による交易路の途絶、宮廷財政の破綻による貸倒れなど、現状の生産と消費の均衡や貨幣供給のバランスが崩れれば、連鎖反応が起きた。
規模が小さければ、地方的、地域的な不況で済むこともあったが、1330年代以降になると、周期的にやって来た経済不況は広域的な金融危機をともない、多くの都市の財政をも直撃した。危機は経済だけにとどまらなかった。10年後には、ペストがクリミアから交易路沿いに伝播して西ヨーロッパを席巻した。
だが、ペストなど疫病の蔓延は、すでに何年も続いた食糧危機による人口破壊に最後のとどめを刺したにすぎない。とりわけ都市への食糧や原材料の供給の問題は都市の統治構造に変革を迫るもので、危機に対応した地中海貿易の構造転換にとって大きな要因となった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章 ― 1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章 ― 2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
補章 ― 3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成