第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群
この節の目次
15世紀半ば以降には、地中海東部の軍事的・政治的環境が一段とやっかいになった。オスマントゥルコの膨張圧力が著しく高まったからだ。トゥルコは1453年にコンスタンティノープルを征圧し、15世紀の終わりまでにはバルカン半島、クリミア半島、黒海沿岸を支配するようになった。イスラム帝国内の交易は、トゥルコ人、ギリシア人、ユダヤ人、アルメニア人の手に移った。イタリア商人たちは、帝国の統治機関が許可する範囲内でのみ、交易相手となることができるにすぎなかった〔cf. Mcneill〕。
15世紀後半には、実質的にはヴェネツィアの地中海貿易圏でのヘゲモニーは失われていた。ヴェネツィアやジェーノヴァの商人たちはイスラム帝国内で従価税などの賦課金を払って交易をおこなったが、賢明なムスリム皇帝は、イタリア人たちが以前にトゥルコ人やアラブ人に対して押し付けた屈辱的な従属的地位のみじめさを忘れなかった。ムハンマドは、地中海東部からイタリアの――許せる範囲内での商業活動を認めたが――海上権力を駆逐しようとしていた。
ヴェネツィアの航海事業経路の変遷
また、権謀に長けた彼はフィレンツェ商人を抱きこんで交易の抜け穴を用意して、ヴェネツィアやジェーノヴァの報復的な禁輸措置に対抗した。そして、イスラム支配地とマッシリア(マルセイユ)などのフランス地中海港との取引は続いていた。なにしろヨーロッパの富裕層がほしがる高額の奢侈品――陶磁器や絹織織物、香料――貿易の経済的利益は捨てがたかったのだ。
1470年代には、トゥルコはヴェネツィア艦隊をしのぐ大規模な艦隊を組織し、黒海とエーゲ海からヴェネツィアの軍船を駆逐した。そして、クリミア半島のイタリア人の交易植民地を破壊し、半島のタタール人部族に対する宗主権を打ち立て、モルダヴィアに貢納を強制した。
1499年と翌年、ヴェネツィア艦隊はトゥルコ艦隊に敗れ、レヴァントを奪われた。トゥルコの勢力は西進し、1516年にはシリアとエジプトを征圧し、22年にはロードス島とマグレブ地方(北アフリカ)沿岸へと支配を広げた。続いてエーゲ海も失われ、キュプロスは1571年にトゥルコに奪われた。その年、エスパーニャ、ヴェネツィア、教皇庁が同盟して、レパント沖でトゥルコの大艦隊を打ち破った。火砲を主力とするヨーロッパの破壊力が優越したためだった。だが、この海戦ののち、すぐにキリスト教勢力の対トゥルコ同盟は解体した。
右上の図は、15世紀末から16世紀前半までのヴェネツィアの商船団の行動範囲を示したもの簡略化するために、航路はアドリア海の出口から表示している。15世紀末から16世紀前半までにヴェネツィアは地中海西部の交易から撤退し、レヴァント航路だけを維持していることがわかる。
15世紀末には、イタリア諸都市国家の地位低下をもたらす状況の変化が現れ始めた。その主要な要因の1つはヨーロッパ世界市場の出現にともなう貿易と海運の構造転換であり、もう1つは強力な諸王権の対抗を軸とする諸国家体系のダイナミズムであった。
ひとまず貿易と海運の変動について見てみよう。通商の変動は金融資金の循環にも変化をもたらすことになった。
貿易と海運の転換の兆しは、イベリアの諸王権による大西洋新大陸航路とインド航路の発見と開拓だった。だが、アジアの香辛料や奢侈品の貿易には、目立つほどの変化はしばらく現れなかった。
ポルトゥガル商人たちはインド航路をつうじて香料などを大量にヨーロッパに運び、その流通価格を引き下げて市場に供給したけれども、流通と販売の経路を有効に組織できなかったのだ。奢侈品の卸売りは多くの特権(人脈)と結びついていて、短期的には優位を築くことはできなかった。
ポルトゥガル商人が販売経路の獲得に手間取っているあいだに、イタリア人の手になるレヴァントの香料貿易が回復・増大してしまい、ポルトゥガル人は価格競争力の優位を活用することができなかった。
何しろ、リスボンを経由するよりも、ヨーロッパまでの距離の短いレヴァントからの道のほうがリスクとコストが小さかった。しかも、ポルトゥガルは絹や木綿、絨毯などの奢侈品の入手には手が回らなかった。というよりも、インド洋のポルトゥガル人にとっては、旧来の通商路に回す方が利ざやは大きかったのだ〔cf. Mcneill〕。そこで、レヴァントをつうじての香料と奢侈品の貿易は16世紀半ばには回復した。
地中海東部のイタリア人による海運と交易に打撃を与えたのは、オスマントゥルコの脅威の増大と、それによる奢侈品の買付けや輸送の――税の加重増徴や制限による――リスクとコストの上昇だった。莫大な軍事費や賄賂を投じて船舶輸送を防衛し、むしろトゥルコ帝国の行政機関に交易税を払うと、インド航路という競合的な供給経路の出現でそれなりに低落した香辛料価格では、見返りが少なくなっていたのだ。
ヴェネツィアの――東方の奢侈品を積載する――ガレー船団のフランデルン、イングランドへの周航は1532年を最後に打ち切られた。
しかし、ヴェネツィアからアルプス東回りに南ドイツに出て、ライン河沿いにフランデルンにいたる内陸通商路は開拓され繁栄し続けた。この兆候こそがヨーロッパ世界経済の生成の現れだった。
その頃から、ヴェネツィアは船舶による世界貿易と海運よりも、高級消費財の生産に重点を移していったように見える。上質毛織物、絹織物、金銀綾織、金銀細工、ガラス製品、皮革製品、印刷などである。毛織物の生産量は1523年の4400反から1602年には3万反近くに増大した〔cf. Bec〕。
ところで、ヴェネツィアは軍船(武装商船)としては従来どおりガレー船と新型のガレアス船を使用していた。というのは、就航海域が地中海で主要な敵がトゥルコであるということから、同じくガレー船を戦闘に使用していたからだ。
あるいは、海運と航海事業の利潤率が大きく低下していて、船舶開発への投資を控えたためかもしれない。というのも、トゥルコ勢力によって地中海東部では通商網や利権がズタズタに引き裂かれ、権益を維持することができなくなっていたからだ。
したがって、ヴェネツィアは、大砲を舷側に搭載できるガレオン船が艦隊の主力になったポルトゥガルやエスパーニャには、海上軍事力で大きく差をつけられていた。
ヨーロッパの海運や艦隊については、16世紀前半に従来のガレー船からカラベル船に船舶輸送の重心が移っていた。カラベル船は建造費が安く、経費がかかる漕ぎ手がいらなかったから、輸送コストを従来の3分の1に削減できたという。輸送力を高めた新型の船舶の開発は、イベリア諸国やネーデルラント、イングランドという大西洋岸の地域で進んだ。海洋国家から後退したヴェネツィアの投資はそこには向かなかった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章 ― 1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章 ― 2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
補章 ― 3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成