第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第6節 ドイツの政治的分裂と諸都市
この節の目次
ゲルマニアの帝国制度は、分立割拠する領邦諸侯や諸都市、諸地方の並存状況を勢力平衡の原理で維持し、それらのあいだの大きな武力闘争を回避するレジ―ムとして機能していた。買収まがいの談合選挙によって王位=帝位を獲得した皇帝は、有力な領邦君侯のひとりとして、帝国レジームの大きな制約のなかで許される範囲において家門権威や家政収入、領地の拡張をめざした。だがゲルマニアの政治的統合は意識に上ることさえなかったようだ。
こうして「帝国の平和」は「勢力平衡」観念によって成り立っている共同主観にすぎなかったから、領域の境界や権益をめぐって小競り合いと呼ぶような勢力争いは頻繁に発生していた。領域国家形成競争のなかで脱落した帝国直属騎士や、野心に満ちた君侯領主による都市や農村への支配の拡張をねらう襲撃や攻撃もしばしば生じた。
このような政治的=軍事的環境のもとで、13世紀~14世紀、諸都市や諸地方(諸領邦)はしばしば連盟や同盟を形成した。北部の諸都市がハンザ同盟を結成して通商特権の確保のために集合的に運動した経過はすでに考察したとおりだ。
ここでは中部のライン都市同盟と南部のシュヴァーベン同盟について瞥見しておく。ハンザも含めてこれらの運動は、相互に影響し合いながら、帝国の脆い勢力均衡状態を揺り動かしてヨーロッパの政治を動かすことすらあった。
都市同盟とは一般に、諸都市団体が同盟して近隣の領邦君侯や帝国騎士、領主や領邦騎士に対して共同防衛する運動だといわれている。都市近傍の君侯領主たちは、財政収入を増やすために都市に課税したりその権利を制限しようとした。都市は屈服するのがいやなら自己防衛するしかないが、するとしばしば君侯領主たちとフェーデ状態に置かれることになってしまった。そこで、いくつかの都市が相互に支援し合う同盟を結んで君侯領主たちと対抗し、あるいは集合的な力の優位を見せつけて敵対を回避しようとしたのだ。
1250年に皇帝フリードリッヒ2世が没してシュタウフェン王朝の権威が失墜したことから、帝国レジームが衰退し、やがて大空位時代となる。勢力平衡の軸心が失われて君侯領主たちの権力闘争が展開し、帝国観念によって規制・整序されていた権限や権利の体系が崩れてその争奪戦となり、紛争や小競り合いが続発するようになった。「帝国の平和」は崩れてしまった。
この状況下、1254年にマインツとヴォルムスの都市団体が利益を守るために「永遠の同盟」協定を結んだ。すぐに近隣の多くのほかの都市も加盟し、さらにスイス、エルザス(アルザス)の諸都市も参加した。そしてついにテューリンゲン地方まで広がった。ライン地方の数名の司教たちやプファルツ伯、テューリンゲン辺境伯も加盟した。だが、この同盟は1257年にはすっかり機能停止して崩壊状態に立ちいたった。
とはいっても、これらの地方がひどい戦乱状態に陥ったわけでもない。結局、商品貨幣経済が浸透して戦役や紛争は大いに金がかかるようになっていたうえに、都市は成長して財政能力を拡大していたから、君侯領主・騎士たちは勝利する見込みもないのに簡単に戦争を引き起こせなくなったものと見られる。
これまでに見たように、中世の王侯や帝国なるものは領土的に統合された国家的な政治体ではなく、自立的な政治的=軍事的単位をなす多数の君侯たちのパースナルな同盟状態だった。ドイツの王国=帝国もまた、皇帝家を盟主とする領邦君侯たちの――脆い勢力平衡状態の上に成り立つ――同盟でしかなかった。
このような同盟状態、勢力平衡にもとづく武力闘争の抑制状態を平和 Friede と呼んでいた。実質的な平和状態ではなく、いわば法的な観念にすぎないのだが。
そういう状況下で既存の皇帝家門の断絶や没落とは、すなわち同盟=勢力平衡状態の崩壊であった。新たな皇帝家の選出過程は、露骨な勢力争いと駆け引き、合従連衡の試みと挫折が繰り返される場となるのは必至だった。
14世紀の後半、ルクセンブルク家の皇帝カール4世は、息子ヴェンツェルに皇帝位を継がせるための選挙資金――選帝侯に手を回す多数派(買収)工作のため――を得ようとして、シュヴァーベン地方の諸都市に新たに課税しようとした。すでにかなりの税を皇帝に納入している諸都市は反発して、1376年にシュヴァーベン同盟を結成して抵抗する。こうして、この地方の14都市がウルム市の指導下で皇帝に対する武装反乱を起こした。
皇帝は諸都市を包囲して降伏を求めたが、都市同盟側はみごとな防戦ぶりを見せた。諸都市は強く結束していたが、皇帝から軍役奉仕を要求された諸侯や領主たちは迷惑だったようだ。というのも、当時は有力君侯でも包囲戦などによる戦役を継続できるのはせいぜい3か月間だったし、勝利の見返りが期待できなければ財政破綻を覚悟しなければならなかったからだ。しかも、戦争の本当の理由が、ルクセンブルク家の家門的な利害にあったのだから。
財政能力を求められる持久戦で都市に勝つ見込みはあまり高くなかった。まもなく皇帝は講和に応じた。
さらに都市同盟はヴュルテンブルク伯エーベルハルト2世と戦うことになった。1377年、同盟はロイトリンゲン付近で伯の軍を撃破した。今度は皇帝が伯と都市との停戦を調停し講和させた。
都市同盟の権力は絶頂に達し、レーゲンスブルク、次いでニュルンベルクが加盟し、さらにアルザスとスイスの諸都市も続いた。同盟は通商同盟というよりもむしろ政治的同盟で、都市周域の平和秩序を構築することが主要な目的だった。
さらに、1381年にはラインラントで新しいライン同盟が結成された。この同盟はシュヴァーベン同盟と合同した。
1387年、ルクセンブルク家の皇帝ヴェンツェルはニュルンベルクで都市群と協定を結んだ。皇帝は、14世紀の危機のなかでルクセンブルク家の権威が低下したことから、いっそう分立化して領邦所領の再分割争いを企てる領邦諸侯を抑えるために都市との同盟を見せつけようとしたようだ。都市側も都市を支配しその経済的権利を切り崩そうとする領邦諸侯の膨張圧力に対して、皇帝と同盟して防衛、反撃しようとしたものと見られる。
ところが、諸都市は皇帝と敵対するヴュルテンブルク伯との戦争に巻き込まれ、敗れることになった。ライン諸都市もプファルツ伯と戦争に突入して撃破されてしまった。ついに1389年、皇帝ヴェンツェルは皇帝平和令を布告してあらゆる都市同盟の解散を命令した。
このときの皇帝には、実力で都市同盟を解体するだけの力がなかったにもかかわらず、都市同盟は崩壊した。都市側にそれだけの意思がなかったということか。目的が部分的な「帝国平和」の再構築だったが、諸都市は同盟としての共同の代表組織を編成することもなく、ましてや共通の財政を組織することもなかった。通商利害は諸都市が単独で防衛できると判断したのだろう。
他方、領邦版図の再分割闘争を企てた有力領邦諸侯ではあったが、既存の古めかしいドイツ王国=帝国レジームに代わる政治的統合(より大きな領域国家の形成)をめざすこともなかった。ドイツに集権的な王権が出現する可能性はなかったようだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成