第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第2節 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
この章の節の目次
アントウェルペンを世界貿易の中心に押し上げた力関係の配置を見てみよう。
このような経済的力関係の変化の契機は、ポルトゥガル王権の大西洋・インド航路の開拓だったように見える。14~15世紀、ヴェネツィアの優位に対抗するため、ジェーノヴァ、フィレンツェなどのイタリア諸都市の企業家たちは地中海の西方に向かってバルセローナ、バレンシーア、セビーリャ、リスボンへと交易拠点を伸ばしていった。ポルトゥガルの海洋遠征の進展にともなって、リスボンがヨーロッパ世界貿易の有力な拠点となっていった。そこには多数の外来商人、ことにジェーノヴァ商人が定住して、活発な経済取引きをおこなった〔cf. Braudel〕。
15世紀前半以降、ポルトゥガルはアフリカ西岸沿いの地方を周航・交易の拠点として掌握していく一方で、マデイラ島、アゾーレス諸島、ヴェルデ諸島、サントーメ島を結ぶ航路を開拓していった。こうして、リスボンを中心として大西洋諸島とアフリカ大西洋岸諸地方を結んでひとまとまりの経済空間が形成された。
おそらくは北イタリアやフランデルンの商人の助力を得ながらではあろうが、ポルトゥガル王室は、象牙、マラゲット、砂金の採取と交易、奴隷売買、さとうきびの栽培と輸出をおこなった。さらに、ヴァスコ・ダ・ガマがインド洋への周航に成功してからは、インド洋方面の胡椒と香料を大量にヨーロッパに持ち込むようになった〔cf. Braudel〕。それは、それまでヨーロッパへの胡椒や香料の供給の大半を支配していたヴェネツィアの優位に痛烈な打撃を与えた。
15世紀前半、ブルッヘやヘントなどスヘルデ河以西のフランドル諸都市は、ヨーロッパ市場への毛織物の供給をめぐる特権的地位を守ろうとして、ブルゴーニュ公に働きかけてイングランド産毛織物の輸入禁止の措置をとらせた。そのときイングランドからの毛織物輸入を担っていたハンザ商人には、もはや状況を覆すほどの力はなかった。ハンザやイタリア商人の独占を突き崩しながら、ロンドンの在地商人たちが毛織物貿易に携わるようになっていた。彼らは、スヘルデ河以東のブラバントや北西ドイツに販路を開拓しようとした。
過去の栄光をとどめるアントウェルペン市庁舎▲
だが、ポルトゥガルは、ヨーロッパ貿易に新たな地理的空間と新たな重要な交易商品を付け加えたにもかかわらず、世界貿易の中心にはなれなかった。というのも、このような「開拓」は、すでに形成されかけていた世界経済の枠組み――分業体系と力の配置――のなかで生じた動きでしかなかったからである。
世界経済の「地理的中心」はアントウェルペンとなった。地理的中心ではあったが、力の源泉は別のところにあったようだ。フェルナン・ブローデルによれば、アントウェルペンの世界経済の中心としての地位は外部勢力によって築かれたのだという。
15世紀の末期に世界交通路が移動し、また大西洋経済が形成されだしたおかげで、アンヴェルスの境遇が決定されたのである〔cf. Braudel〕。
つまり、世界貿易ネットワークの交易経路を組織化・管理し、貨幣資本の投下と運用を支配していたのは、外来ないし域外商人たちだったのだ。ホラントやゼーラント、イングランド、北イタリア、エスパーニャ、ポルトゥガルの船舶数や船団の輸送能力に比べると、アントウェルペンは見るべき力をもたなかった。それでも、15世紀末から16世紀中葉まで「世界の中心」に位置した。この都市を世界貿易の中心に押し上げた要因は何だったのか。
アントウェルペンの最初の飛躍(16世紀初頭)をもたらしたものは香料である、とブローデルはいう。すなわちポルトゥガルがインド洋から持ち込んだ香料であった。
ポルトゥガルがその役割を十全に果たしたのは、香料の支配者であるリスボンの国王と、銀の支配者である高地ドイツの商人たち――ヴェルザー家、ホッホシュテッター家、さらにほかのだれよりも巨大で幸運に恵まれたフッガー家――との癒着によるものであった〔cf. Braudel〕。
2度目の飛躍(16世紀中葉)を支えたのは、エスパーニャの銀(アメリカ大陸の銀)だった。最後の飛躍(16世紀後半)は、イタリアをめぐるエスパーニャ王とフランス王との戦争が終結し、平穏が戻った結果だったという〔cf. Braudel〕。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成