第2節 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

この章の節の目次

1 ヨーロッパ貿易の勢力配置

ⅰ アントウェルペンの繁栄

ⅱ ポルトゥガルの隆盛

ⅲ ヨーロッパ世界貿易の構造的変動

ⅳ エスパーニャの栄光

2 アントウェルペンの挫折

ⅰ 宗教紛争と諸王権の対抗

ⅱ エスパーニャ王権の集権化政策

ⅲ ネーデルラントの反乱と戦争

3 間奏曲としてのジェーノヴァの隆盛

ⅱ エスパーニャ王権の集権化政策

  エスパーニャ王フェリーペ2世は、ヨーロッパ「帝国政策」のための財政資金を豊かなネーデルラントから吸い上げようとして、都市政庁や在地貴族の特権を切り崩して新たな賦課金や課税を試みた。賦課や課税の重荷は、間接税をつうじて民衆にも転嫁された。
  すでにブルゴーニュ公の統治下に入ってから、次いでハプスブルク家の支配下に置かれてからはなおのこと、ネーデルラント地方では在地領主の裁判権や特権は切り縮められてきた。そのうえに、15世紀からのインフレイションのなかで彼らの実質的収入はかなり目減りしてきていた。そこに16世紀のハプスブルク王室財政の破綻と金融危機、不況によって、ほかの諸階級と同様に経済的逼迫・困窮が深まった。しかも、ネーデルラントがエスパーニャ王領になってからこのかた、ハプスブルク家の宮廷政府と法務官たちは、わずかに地方領主たちの手許に残されていた特権を次々に削り取ってきた。
  とはいえ、ハプスブルク家の行政官たちは、貴族や特権商人層に対する支配・収奪は強めても、直接に都市下層民や農民を圧迫するような政策はとらなかった。むしろ、農民への課税や賦課の加重を抑制しようとしたようだ。だが、都市の徴税制度や領主層の巧妙な賦課の仕組みによって、結局のところ、負担は都市住民や農民の肩に一番重くのしかかるようになっていった。

  ハプスブルク王室の集権化政策の経過を見てみよう。
  1520年には、新規に「十分の一税」を徴収することを禁止し、過去40年間に認定された在地教会組織・貴族や都市商人の特権を廃止した。31年には在地領主に対して、借地農に対する賦課や農民からの貢租の増徴を禁止した。
  1559年には、フェリーペ2世が教皇庁から司教座創設権を獲得し、司教管区を増やして司教を王室の思いどおりに任命したうえに、大修道院の財政的独立を奪って収入を没収し、王室と結びついた修道会の収入に組み入れた――カスティーリャではローマ教会の組織と財政は王権の中央政府と一体化していたのだ――。そのうえ、それまで在地の諸団体から選任されていた修道院長を新任の司教(ハプスブルク家に従順な聖職者)に置き換えていった〔cf. Wallerstein01〕
  このようにして、在地の聖俗貴族層は、財政権力を切り崩されたばかりか、域内での有力ポストの独占権を剥奪され、支配階級としての結びつきを破壊されていくことになった。もとより、都市での賦課や税の増徴は、巧妙な税回避の手管がある富裕商人よりも、不況のなかで所得が大きく下落していた下層階級の生活をはるかに強く圧迫していた。

  おりしも、1563~70年のスウェーデンとデンマルクとの戦争で、バルト海からネーデルラントへの穀物輸入が阻害された。供給量が激減した穀物価格は急騰して、低賃金の都市民衆の生活をさらに圧迫した。民衆の生活不安と憤懣を下地にして、カルヴィニズムが浸透していった。しかも、ネーデルラント諸都市には、迫害を逃れてやって来たユグノーの移住者も多かった。民衆の憤りはローマ教会に向けられた。
  ついに1566年、アントウェルペン住民の反カトリック的な騒乱(偶像破壊や教会占拠)が始まった。都市内部の貧富の差や階級対立が引き金だったかもしれない。税負担を加重するハプスブルク家の支配への反感もあっただろう。とにかく過激な下層民衆の反乱が続発した。
  ところが、都市の平穏と秩序を回復するため、フェリーペは新たな司教区制を設けて異端審問を強行導入した。異端審問所(法廷)はエスパーニャ式の支配=抑圧装置で、その活動は都市や農村の既存の統治秩序への乱暴な介入であった。それは増税という財政的な集権化と並んで、政治的・イデオロギー的な集権化政策の一環だった。
  これは、追いつめられていた在地貴族と都市団体の地方的特権――裁判権や罰令権、行政権――へのあからさまな攻撃だった。だから、貴族層と都市指導者が反乱に加わって、暴動はネーデルラント全域に広がった。だが、翌年、アルバ公指揮下の派遣軍が到着して、反乱を鎮圧してしまった。

ⅲ ネーデルラントの反乱と戦争

  ところが、イングランド王権は、エスパーニャ王権によるネーデルラントの軍事的制圧によって大きな脅威を受けることになった。イングランドは、ビスケイ湾からドーヴァーにいたる海域で私掠船による海戦と港湾襲撃を仕掛けた。
  私掠船団はイングランド王国海軍ロイヤルネイヴィーの延長部分で、正規の艦隊の構成部分だった。彼らは王室直属艦隊との共同作戦や個別の海賊行為によってカトリック諸王国の船舶を襲い、財貨を掠奪し通商を破壊することで、イングランドの海洋戦略を補助していた。商人でもある私掠船長たちは王権に税金を納めて私掠特許状を獲得し、掠奪した財貨の分配には、王室も参加していた。1568年、イングランドが仕かけた海戦によって、ネーデルラントとエスパーニャとの海上連絡は途絶した。アントウェルペンの隆盛を支えていた貿易網の最も重要な経路が失われてしまった。
  イングランドとエスパーニャとのあいだでは、そののち講和と海戦勃発が繰り返される。他方で、ネーデルラント反乱派の北部諸州は、エスパーニャ王軍の拠点となったアントウェルペンへの補給を妨げるためにスヘルデ河の封鎖あるいは懲罰的な通航課税を継続したため、アントウェルペンの世界貿易都市としての地位を失っていくことになった。

  こうして、世界市場での都市の経済活動は、諸王権(諸国家)の対抗関係のなかで制約されるという構造が明白になった。都市が世界市場のなかで優位を獲得ないし維持するためには、通商競争がきわめて暴力的な形態になってしまったため、もはや強力な国家に編合されるか、都市自らが強力な国家装置を創出して運営するか、いずれかの途を選ぶしかなかった。
  ヨーロッパ世界市場と諸国家体系の権力構造がアントウェルペンを繁栄の頂点に押し上げたのだったが、今度は、その権力構造がアントウェルペンの経済的優位を掘り崩すことになってしまった。
  アントウェルペンの悲劇は経済的地位の後退だけではなかった。ネーデルラント北部諸州とハプスブルク家との戦争のなかで、双方から軍事的占領と強奪や破壊を受けることになってしまった。その悲劇は、北部諸州の独立戦争とアムステルダムの覇権掌握を考察するときに取り上げることにする。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

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序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブルッヘ(ブリュージュ)の勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望