第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
1680年、成人したカール11世は貴族院から王の政策への支持を取り付け、さらに王国評議会での下級貴族・都市代表・地主・自営農民層の支持を受けながら、貴族院と顧問会議の意見にかかわりなく「王の専制」統治をおこなう権利を獲得した。「王の専制」とはいうものの、スウェーデンでは早くから王は統治機構の一環をなす機関となっていたから、カール11世個人による専制ではなく、旧来の大貴族集団の統治に批判的な側近貴族集団とともに王権の運営スタイルを変革したというべきだろう。
王は王国全域で土地改革を推進して貴族所領の多くを接収し、失われていた王領地と課税権、王室収入の回復を進めた。これは王領地回復政策
Reduktion と呼ばれた。
王権の反撃は広範におよび、奪われた旧王領地の80%を――その地代収取権や徴税権とともに――無償で王室の支配下に取り戻したという。なかでも有力都市や戦略上の要衝のほとんどを王の直轄地に編合した。こうして、貴族によって支配される農地は半減した。さらに貴族資産(所領やその収益、邸宅など)についての課税免除特権は停止され、貴族所領の法的自立性(所領内農民に対する独自の裁判権など)は解除された。域外バルト海沿岸の支配地・属領の所領保有権や課税権、収益権の大半は王権の管理下に引き戻された。
こうして、17世紀初頭には確保されていた《土地支配における王室の最優位》が制度的にほぼ回復された。王室歳入は有力貴族層の犠牲の上に回復されたうえに、農民への増税によってさらに拡大した。改革は財政制度の適正化、経済政策や海陸の軍備への手当て、司法手続きの整備、教会統治、教育制度など多面にわたった。かねてから有力大貴族の専横の抑制を求めていた王国評議会は、改革政策を歓迎し、王と同盟してその従順な装置であり続けたことから、王と新たな顧問会議の権力はかつてないほど強化され、王権に対する評議会の統制と制約は縮退した。
カールはこの状況を軍制改革に利用した。何よりもまず、農村民徴兵制の整備拡充によって正規の常備軍を確立した。1682年には軍務割当制
indelningsverket を導入した。
この制度によって農村では、王国全域の農地が3から4の農場からなる集合区画(経営単位)に分割され、兵士はそこからの収穫物・収入から食糧そのほかの俸給給与を配給され、その地区の小屋に宿営する。これによって、本土域内では、王室財政から全常備兵に現金で俸給を支払うという負担を取り除いた。当時の王権が現金資産を備蓄することは非常に難しかったからだ。また、一定規模以上の所領
rusthåll には1騎の騎兵――兵舎・装備保持と厩舎での数頭の馬の飼育――を、沿海部の農場には水兵団を維持する義務を課した。
歩兵や水兵は農村部の土地を保有していない住民からリクルートされた兵員で、農業には従事しないで王権の軍務を専門とする職業軍人となった。常備軍の確立によって兵力は拡大され、1680年年代には、王権はおよそ6万3000の常備兵員を確保した。そのうち3分の1は域外領土に駐屯する専門の軍人だった。教育訓練と能力試験で選抜された将校たちは、貴族から没収された土地(王領地)に定住させられた。武装した商船隊=艦隊もまた、軍事戦略上および商業上の理由から精力的に増強された。
また王権は、行政官僚組織の拡充のために、下級貴族にも上級貴族と同等の官職への採用資格を与え、系統的な訓練を施し能力評価によって登用配置して厳格な階層秩序と指揮命令系統を組織化し、国家装置の中核とした。とりわけバルト海東部のリヴォニア領とデンマークから獲得したスコーネ地方では、スウェーデン化を進めるために、在地統治組織に行政官を送り込んで中央政府の統制に緊密に統合した。先の戦争中、スウェーデン王権の統治に抵抗していたスコーネ地方の農民を警戒して、王権は王国北部で徴用した兵員を派遣して軍務と治安活動を担わせた。
戦役で獲得した新たな領地を王国秩序に統合し、その一体性を保持するため、1693年には王国評議会が、王国全土におよぶ「王の絶対的な主権」を「神聖なもの」とする決議を採決した。すでに王は統治組織を担う機関と考えられていたから、それは実態をともなうものとしてヨーロッパで最初に提起された《近代的な国家主権の観念》だったといえるだろう。
このようにして「国王専制」の統治体制が確立されたのち、1697年にはヴァーサ家最後の軍人王カール12世が即位した。彼は18年間を海外で過ごしたが、そのうち5年間はトルコに閉じ込められていた。しかしその間、域内では深刻な王権への反抗はなかった。もはや王は、王位をもつ人格から相対的に分離した政治装置として位置づけられていたということだ。
ところで、これまでの戦役でスウェーデン王権はバルト海沿岸各地方の要衝に広大な領地を確保したため、バルト海域での穀物海運に対する課税権は、王室に巨額の税収入を呼び込み続け、各地方での「通常の支出」をあがなってなお余剰を生み出したという。王権は貿易利潤の再分配に介入する権力を増大させたのだ。もっとも、ふたたび戦役があれば支出は飛躍的に膨張するので、財政逼迫は不可避だったが。
これによるスウェーデン王室収入は、1699年の歳入の3分の1を優に超えたという。征服地で獲得した領地を王権によって所領として分配された貴族層も、大きな収入を獲得した。このほか、王権は征服地リヴォニアやオストプロイセンからも多くの富と人員を獲得した。それらによって、本土の小さな人口と総体として幼弱な商工業では維持できないはずの強大な軍事装置を組織運営することができた。スウェーデン王権は域外の人材を軍と政府に登用・補充したため、18世紀初頭、カール12世のポーランド、ロシアへの軍事作戦に従事した将官のうち3人に1人はバルト海沿岸諸地方の出身者だったという。
しかし、カール11世の集権化と王権拡充にもかかわらず、スウェーデン王国本土の限られた人口および経済的基盤では、バルト海域に広がった帝国版図を長く維持することはできなかった。域外支配地の内部と周囲には多くの敵対勢力をかかえこんでいたからだ。
1700年頃の時点で、スカンディナヴィア(スウェーデンとフィンランド)の本土での150万とほぼ同じ人口が域外領土に存在していた。カール12世の治世では、本土と域外領土に合わせて約300万の人口に対して動員できる兵力は、域外からの傭兵を含め最大で11万だった。フランスやイングランドに比べれば、人口に対する軍の比重はきわめて大きかった。財政費用の配分も同じ構造だった。
ところが、海によって隔てられた領地は深刻な分裂要因をいくつもはらんでいた。当時の統治思想、統治方法としては、在地の貴族層の支配を臣従誓約と引き換えに存続させ、その基盤のうえにスウェーデン王と貴族の権威を覆いかぶせる形のレジームしか取りえなかったため、周囲の地政学的環境が変われば容易に崩れる危険性をはらんでいた。
とりわけプロイセンやポンメルン、エストニアのドイツ人貴族層は、従来どおりに地方的=領主特権を盾に分立を指向していた。宗教的にもプロテスタント派、カトリック派、ギリシア正教派とさまざまな諸地方のモザイク状態だった。しかも、バルト海の周域でスウェーデン王権に対抗する有力君侯たち――先頃の戦争で領地や権益を奪われた――は、スウェーデンの権力・影響力の切り崩しをもくろんでいた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成