栞子はさらに続けた。
「お祖母様の結婚が1959年で、1962年だったということであれば、全集の第8巻は、田中嘉雄さんが自ら買い求めてお祖母様に贈られたのでしょう。見返しの左下に田中嘉雄という署名をして。
だから、もともとは、見返しの左下に田中嘉雄という贈り主の名前だけが書かれていたはずです」
なぜ、そんなことまでわかるのだと大輔はさらに驚きながら、「では、なぜ見返しの中央に『夏目漱石』というサインが書かれ、田中嘉雄に献呈したようにしてあるのですか。
あなたはその理由も知っているのでしょう。教えてください」と頼み込んだ。
栞子はためらいがちに「お祖母様のプライヴァシーにかかわることですが、それでもいいですか」と念を押したうえで語り出した。その内容はこうだった。
祖母の絹子には結婚できなかった恋人がいた。その男性が田中嘉雄だ。結婚後もしばらく付き合いが続いたらしい。大輔の母親は田中嘉雄の子どもではないか。
絹子の両親に強く反対されたため、田中は絹子と結婚することはできなかった。そして、家や仕事を捨てて絹子と駆け落ち同然に結婚するという決断はできなかったのだ。
田中としては、遠くから絹子を見守ることしかできなかった。
やがて、絹子の夫が荒れた生活をするようになって、絹子が苦しんでも、助けることはできなかった。
それでも、自分の本当の気持ちを伝えるために田中は漱石全集第8巻「それから」を購入し見返しに自分の名を書いて絹子に贈った。家族も財産も捨てて人妻と駆け落ちすることを決心した「それから」の主人公に自らの気持ちを重ね合わせるように。
その切実な気持ちを理解した絹子は、第8巻を自分が生きる支えとして大切に保管することにした。ただし自分だけの心に秘めた宝として。
だから、すでに全集のなかにあった第8巻は処分したのだろう。第8巻が2冊もあれば、蔵書の不自然さを疑われるかもしれないからだ。
そして、絹子は見返しの「田中嘉雄」の下に「様へ」を自ら書き加え、さらに中央に「夏目漱石」というサインを書き込んだ。こうすることで、第8巻が田中嘉雄から贈られたこと、つまり絹子との関係を家族に知られることがないようにしたのだ。
だから、ほかの家族が蔵書に手を触れるのを嫌がったのだ。そのために、大輔は幼い頃に蔵書に手を触れて祖母の逆鱗に触れ、こっぴどく叱られたことから、本が読むことができない体質になってしまったのだが。
してみると、大柄な母親と大輔は祖父の血を引いているのではなく、田中嘉雄の血を受け継いでいることになる。
衰弱した祖母が死ぬ直前に大輔に何かを告げようとして思いとどまったようだが、告げたかったのは、たぶんそのことだったのだろう。だとすれば、栞子のおかげで大輔は祖母が死ぬ間際に伝えたかったことを知ることができたことになる。
ビブリア古書堂、いや栞子との邂逅はいわば運命的な出会いだったと言えるかもしれない。
というわけで、大輔は古書にまつわる事情を栞子に解き明かしてもらうことで、自分のルーツを知ることができた。 そんな洞察と推理ができる栞子の能力に深く感嘆したのだった。そして、古書をめぐる事柄について語るときの栞子の知性の輝きと表情に強く惹かれることになった。