さて、しばらくして小菅奈緒はビブリア古書堂にやって来た。対応したのは、店にいた大輔と栞子だった。
大輔は奈緒に「本を返してほしい」と要求したが、奈緒の返事は「今は返せない」というすげないものだった。
大輔が「返せないってどういうことだ」と詰問すると、奈緒は「うるさい。お前たちに関係ないだろ。どうせ、何が起きたのか何もわからないくせに」といきり立った。
余りに勝手な言い分に大輔が反論しようとするのを抑えて、栞子が言った。
「何があったのか、だいたいわかります」
驚いて見つめる奈緒を静かに見つめながら、栞子は自分の推理を語り始めた。
「あなたは同級生の西野さんの誕生日のためにお菓子を作りました。きれいにラッピングしてから保冷剤と一緒に紙袋に入れてバス停に向かいました。
ところが、バス停前の寺の石段近くで志田さんの自転車にぶつかって転んでしまいました。
紙袋のなかを調べたところ、お菓子は壊れていなかったものの、ラッピングのリボンが取れてしまいました。どうしようと考えているときに、志田さんお荷物のなかに文庫本『落穂拾ひ』があるのに気がつきました。
今ではほとんどの文庫本から細い布製のスピンがなくなってしまいましたが、新潮文庫にだけは残されています。しかも色は深い臙脂です。リボンを結び直すのにぴったりの色です。
あなたは、文庫本のスピンを手で千切ろうとしましたが、取れません。そのとき、近くを笠井さんが通りかかりました。あなたは彼に鋏を貸してほしいと頼みましたね。
その鋏で文庫本からスピンを切り離してリボンを結び直しました。
スピンを取ってしまった文庫本を戻すわけにもいかず、あなたは持ち去りました。
そして、バス停に急いで西野さんに紙袋のお菓子を渡そうとしましたが、拒否されたのですよね。 違いますか?」
真相を言い当てられて、奈緒は驚愕した。
「ひょっとして、わたしが本を返したくない理由もわかるの?」
「今、あなたは『本を返せない』とおっしゃいましたね、『返さない』ではなく……それは、あの本を読んでいるからではないですか」と栞子は返答した。
「別に本が読みたかったわけじゃないんだ。でも捨てようと思って本を開いたら、『落穂拾ひ』のページが開いて、そこに少女がプレゼントを贈る場面が書かれていたから、読み始めたんだ。
あの本に書かれていることは全部願望なんだ。願望だってはっきりしているからいい話なんだ。
本を盗んだこと、紐を切ったことは謝るよ。 紐が切れたままでいいなら、ここに持ってくるから、あの人に返してよ」
「それはだめです。
あなたが直接に志田さんのところに返しにいって謝るべきです。志田さんは『落穂拾ひ』が大好きすから、その話が好きなあなたをきっと許してくれると思います」と栞子が答えた。
新潮社の文庫本は、懐かしさが漂う「かつての文庫本」の姿を残している。そして、本の造りがしかkりしている。
もちろん、昔風の造りの第一の特徴は、この物語にあるようにスピン=栞紐があることだ。
私が考える2つ目の特徴は、ほんの「ずっしり加減、すなわち重さだ。文庫本を手に取って重さを比べてみると、たぶん新潮文庫が一番重いはずだ。
その理由は、新潮文庫が使っている本文用紙の銘柄と斤量にある。そのほかの一般の文庫では、本文用紙は斤量の割に厚みがある書籍用紙を使用しているのに対して、新潮文庫は圧抵度の強い――つまい密度の大きな――「クリーム金鞠」を使用しているからだ。
紙製造工程での圧抵を大きくして表面の艶と滑らかさを大きくした紙質で、オフセット印刷の印字ではこの紙が一番クリアになる。
私は手に持ったときの新潮文庫の重み感が最も好ましいと感じる。だが、軽さを求める人にとっては、重すぎるかもしれない。