ところで、漱石全集と祖母をめぐる事情について栞子とやり取りするなかで、大輔は現在、ハローワークに通って職探しをしていることを告げていた。そして、店主の栞子は、古書店業では数多くの書籍を持ち運びするので、たくましい男性の体力が必要な場合が多いこと痛感していた。
そこで、ひととおり話が終わった後で、栞子は大輔に提案した。
「この店でアルバイトとして働いていただけませんか。といっても、給料は多くお支払いできませんが……」と。言うまでもなく、大輔が信頼できる若者であることに好印象を抱いたからだ。
大輔は驚いて、「でも、俺、本が読めない体質なんですよ。なのに古書店に勤めることができるんですか」と問い返した。
「ええ、大丈夫です。古本屋に必要なのは古書の内容よりも市場価格です。 力仕事ができて運転免許を持っている方が必要なのです」
「わかりました。 ですが、一つだけ条件があります」
「何ですか」
「夏目漱石の『それから』のことを話してくれませんか。どういう話なのか詳しく知りたいのです」
もちろん、大輔としては物語の内容にも、著者や古書そのものをめぐる物語も興味はあるのだが、本が読めないので、栞子からそういう物語を教えてもらえれば、言うことはない。
栞子は条件を受け入れたようで、大輔を書店のカウンター前の椅子に座らせると、流暢に語り始めた。
古書や書籍をめぐる事柄を話すときほど栞子が生き生きとしていることはない。だが、弟も含めて、周りの人たちは栞子の話についていけなくて、だいたいはあっけに取られたり、うんざりしたりする。
栞子も、本の話に意識せずについついのめり込んでしまって、周囲の人びとを困惑させることに気づいている。そこにコンプレックスを感じている。そのせいで、他人と打ち解けて話すことができないのだ。
ところが、今、自分の傍らで本の話をしてほしいという人物が現れた。心置きなく自分を表現できる相手が現れたのだ。