ここで考察するのは、映画作品の物語の筋立ての「つじつま」を合わせる「偶然の連鎖」について、だ。
およそ文芸や芸術作品が描く物語は、現実世界での経験・知覚を何ほどか反映しながら、人びとの主観のなかで組み立てられた「筋立て」にほかならない。
たとえば小説。
佐々木譲『笑う警官』(ハルキ文庫:角川春樹事務所)の筋立てを一瞥すると、
北海道警察内部の腐敗の事実について県議会で証言することになっていた警官(若手刑事)が、冤罪をかけられて指名手配され、しかも、「発見しだい射殺すべし」という方針が出た。
この公式の捜査方針に対して、警察幹部の腐敗や謀略をかぎつけたその警官の仲間たちは、公式の道警の捜査とは別個に、同僚の冤罪を晴らすべく、午後遅くから夜中を徹して、独自の捜査を繰り広げる。そういう物語だ。
そんなことは、現実には起こるはずがないし、まして、一晩で事件の真相が解明されるなんて、ありえない。
つまり、物語の筋立てには、ものすごく無理がある。けれども、この作品は、読者を物語の世界に引きずりこみ、深い感情移入をもたらす。傑作である。
そして、道警察という官僚・行政組織の現代における組織的=制度的劣化・硬直性や腐敗の現実、他方で犯罪捜査に取り組む現場の捜査官=人間たちの情熱や正義感、反骨精神などを、見事に描き出している。
したがって、かなり無理がある物語の展開に対しては、批判はほとんどなく、むしろ高い評価が与えられている。
そうだ、これはフィクションだからだ。
その結果、この小説が描き出そうとしたテーマや問題状況が、きわめて高く評価された。この物語は事実ではないが、日本の警察組織のありようの「本質的な要因」について真理を描き出しているのだ。
ところが、映画作品となると、同じフィクションでも、物語の筋立てについての評価の目は格段に厳しくなる場合が多い。
どうやら、多くの人びとは、実写映像を観ると、その物語の筋立てについて「リアリティ」を求めがちになるらしい。フィクションなのに。人びとは実写映像化された物語に対して、独特のリアリティ(現実感)を求めるものらしい。
そのため、映像作品の物語が描き出そうとしたテーマや問題について考える前に、物語の筋立てについての「リアリティ」に関心が向いてしまい、映像作品が提起したテーマ=話題についての吟味が忘れられてしまう場合が多いようだ。
ここで、私の叙述の結論を先に言っておくと、「現実社会の真理・真実」と「芸術的(ないし文芸的)真理・真実」とは異なる、ということだ。
もっとも「現実社会の真理・真実」とはいっても、それは各人の思考・認識のなかの――カント的な意味合いでの――観念上の想定にすぎないのだが。実際にあるのは、「現実社会の真理・真実」についての私たちの認識や意識、想念にすぎない。
だから、それは、日常の経験的知覚において把握され、形作られた《リアリティのイメイジ》というべきかもしれない。
つまり、現実社会での出来事の筋立ては「こうあるべきだ」という個々人のイメイジ――因果律のイメイジ――があって、映画作品のストーリー展開について、そのイメイジを尺度として評価しがちだということだ。
しかしながら、映画を楽しむためには、筋立ての「つじつま」が合うかどうかということよりも――もちろん、こだわりたい人は大いにこだわっていい――、そのような物語で何を描き出そうとしたか、観客に何を考えてもらおうとしたかを思索すべきだということだ。