こうしてみると、この作品の物語におけるコンイシデンシーはそれなりの完結性をもつといえる。
ただし、狙撃の世界を描きたかったのだとすれば、あまりに長い物語を選んでしまったという感じはする。プロットが複雑化し、物語が長大化してしまった。とはいえ、狙撃の世界を迫真の物語で描いたのがこの原作しかなかったのだとすれば、仕方がなかったということになる。
ことに日本向けヴァージョンでは、上映時間を限ったために何か所か「はしょり」があるようで、筋立てがわかりずらい。「つじつま」があっているのか判断しにくい。映画の日本向け配給システムの関係で、日本向けヴァージョンの上映時間をひょっとして無理やり2時間余りに切り縮めたということはありえる。
何しろ、日本の映画劇場の経営は、課税率の大きさという問題もあって、上映の回転率をかなり高くしないと成り立たない、という現状がある。つまり、2時間以上の上映時間の作品を営業ベイスに乗せるのがむずかしいのだ。
それでもこの作品が日本でそこそこ人気が出そうだという判断で配給することになったとして、上映時間をせいぜい2時間に圧縮するように編集したため、物語の文脈が読み取りにくいところがあったかもしれない。文脈を読み取りにくいと切実感を抱くにくいし、それゆえ面白味を感じにくくなる。
そうだとすると、商業的な制約から、制作陣に狙いは日本人にはよく伝わらない編集になっているということになる。
ヨーロッパ向けヴァージョンはどうだったのか? ぜひ知りたいものだ。
結局のところ、フィクション映画については、小説やマンガと同じく、テーマを語るために「極限状況」とも言うべき《きわめて特異な状況や筋立て》を設定するのだから、そのつもりで観るべきだ。
しかし、それでも、物語が現実世界とどれほどの違い=距離があるのかということが、私たち観る側がどれほどの現実味を感じるかの程度の差を生み出す。それはまた、見る側の経験や知識の豊富さ、読書量などが問われることになる。いろいろな映画を楽しむためには、つねに豊富な読書などで学習することが必要となるだろう。
では、現実からかなり遊離したファンタジーや奇譚物語ではどうだろう。
たとえば、『バットマン』のような物語はファンタジーに近く、そもそも生起するできごとが現実離れしている。もっとも、舞台となるゴッサムシティはニュウヨークをモデルにしているのだが。
現実離れした事件の展開の個々の場面、局部的な場面では、登場人物たちは――かなりの誇張はあるが――現実世界の人間たちと近い感情を抱き言動をおこなう。
というのも、小説であれ、映画であれ、読み手や観客を物語りに引き込むためには、登場人物たちへの感情移入が不可欠であるからだ。より深い感情移入をもたらすためには、登場人物たちの心情や行動が私たちに近い存在でなければならない。そこで、物語り全体は荒唐無稽でも、個々の場面での人物たちの心情や言動は現実世界の人間と共通するものをより多く持つように設定されることになる。
もちろん、ファンタジー物語に対する観客側の期待・求めるものは、リアリティではなくて、むしろ現実との距離・違いである。しかし、娯楽として物語を楽しむためには、登場人物に感情移入できなければならないのだ。
そして、原作者や制作陣は「愛のすばらしさ」「友情の大切さ」「他者のために自己犠牲を厭わない精神」などをテーマに掲げる。
それにしても、そもそもフィクション――かなりリアルな状況設定の物語からファンタジーまで――は、人間の現実世界への見方、つまり世界観、歴史観、人生観などの投影である。物語が、たとえ「ハリー・ポッター」のような純然たるファンタジーであっても。
ことに善悪や倫理観、好悪の尺度、世の中や他人への態度――友情とか恋愛感情、競争心など――については、私たちの日常的な経験・感覚に切実に関係するものとなる。
その意味では、どんなに荒唐無稽な物語であっても、観客に理解できるものであるためには、必ず何ほどかの現実味を備えていなければならない。というよりも、フィクシャスな物語のあれこれの部分は、現実世界から切り取ってきた素材・材料によって組み立てられているのだ。
| 前のページへ |