今回は映画作品の物語の筋立て、ストーリー展開について考えてみることにします。もちろんドキュメンタリ―・フィルムというものがありますが、ここではフィクションの映像物語について考えてみます。
《映像芸術における「現実味=リアリティ」(または実在性)》と《現実の世の中》とは、そもそも別次元のものです。小説や映画の物語には、制作陣が観客に訴えかけるメッセイジがあります。そのメッセイジを事件の展開と結末という形で表現する道具立てが、物語です。
この物語は、ファンタジーであろうとも、現実の人間社会や歴史についての判断、価値観が示されているはずです。それを私は「芸術的ないし文芸的な真理」と呼ぶことにします。それは、架空の物語、架空の事件の展開や架空の人物たちの言動によって表現された「人間社会についての見方」とも言えます。
このようなメッセイジ=真理を伝えるためには、映像を見る人びとを引きつけ、感情移入させなかればなりません。その意味では、生身の人間を引きつける「現実感」というか「切実感」「共感」が映像物語のなかに存在しなければなりません。
そのような真理・現実感は、生の現実そのものではありません。生の現実を一定の価値観や視座、判断基準で分析して組み立てたものです。特殊な屈折率をもつレンズやフィルターを通して描かれた像なのです。
ところが、制作陣のメッセイジを読み解くのは大変に難しいことです。ひとたび公開された映画作品は、それぞれの立場や視座によってさまざまに解釈され、理解されていきます。そういう多様な理解を受け入れることが、映画という芸術・産業の大前提なのです。
映画や小説の物語には、制作陣や作者のメッセイジが込められていますが、それは一定の結論を観客に受容させるというものではありません。観客が自らの心と頭で感じ考えるための材料を提供するのです。
さて、観客が現実感や切実感を感じるうえで、判断基準(評価基準)として現実世界での経験的感覚や現実味を映画作品のなかに直接に持ち込んでも、あまり大した意味はありません。むしろ、普段私たちが抱いている「現実感」や「常識」を揺さぶって、再吟味させるのが映画作品の使命であるとさえ言えます。
というのは、そういう現実感や常識は、じつは社会――マスメディアや教育など――の仕組みのなかで一定のバイアスやフィルターをかけられながら形成された「共同主観」だからです。
映画物語の実在性とは、リアルな現実そのものではないのです。もちろん、映画の物語や状況・人物の設定が私たちの日常的な経験・感覚とあまりにかけ離れていると、観客は切実感を抱いたり感情移入することはできません。ですから、私たちの日常的経験との距離の取り方が大変に難しいのです。
映画の物語はいわば「心の旅」「知の旅」なのです。日常的な経験に即しながら日常性を脱却するのです。つまり、感情移入しながら日常的な経験を突き放して眺める機会を与えるのです。
私たちとしては、映画作品が取り上げた素材やテーマ、登場人物、物語の展開などを手がかりに、「あたりまえ」だと思っている現実世界の見方や感じ方、そして常識を問い直したいものです。
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