政治スリラーとかヴァイオレンス・アクションものには、この手の荒唐無稽ともいえるような筋立てが多い。
この意味では、物語り全体としての(つまり客観的に見た場合の)状況設定は、リアリティに乏しいとはいえる。
だが、筋立ての面白さをこのような「リアリティ」に求めるかどうかは、人それぞれだ。
なかには、ジェットコウスターのような、その場そばその場での切迫感や興奮を楽しみたいという人もいるだろう。他方で、筋立ての客観性というか現実味、あるいはプロットの巧みさを求める人にとっては、取ってつけたようなストーリー展開や状況設定は鼻白むものかもしれない。
けれども、この手の活劇の物語の発端、状況設定がダメということになると、そもそも物語が成り立たない。筋はどうあれ、とにかく物語は始まらなければならない。だから、《初期設定》に難癖をつけても始まらない。
「ビッグバン」――つまりは所与とされる出発点となる設定――がなければ、宇宙創成の物語はそもそも成り立たないのだ。
したがって、映画作品のストーリー展開は、 if … then / given that, … というゲイム的な論理の世界にあるのだ。
さて、先ほど、物語の筋立てはテーマを効果的に表現するための手段(道具立て)にほかならない(でしかない)と述べた。
だとすれば、筋立てについての評価をもし下すとすれば、その尺度は、その筋立てによってどれほど効果的にテーマが表現されたのか、ということになる。
その場合、効果の度合いとは、説得力とか、活劇のなかに観客を引き込む魅力、観客を感情移入へと誘導する手際ということになろうか。
とすれば、映画を観る側としてはまず「百歩譲って」物語の初期設定をひとまず認めて、状況設定を受け入れようということになる。では、その状況設定のなかで、物語に登場する人物たちは、作品で描かれているような心理状態になり、そういう言動をおこなうだろうか、ということになる。
そのような場面状況で、人はそのように感じ、考え、言動するのか、ということになる。多くの観客の日常的な経験からして納得するのか、とか経験や知識にもとづく想像がおよぶ範囲にあるか、ということになる。それがリアリティの根拠となる。
一定の状況下での心理状態とか言動反応がリアルかどうかについては、観る人の経験や「常識」、好み、価値観によって左右される。となると、人それぞれで、まちまちになる。
ということは、やはり堂々巡りになってしまう。結局、人それぞれということになる。他人が「リアリティ」の評価を提示し、押し付けても、「余計なお世話」ということになる。
とはいえ、大方の人びとが「たしかに、そうなるだろう」「まあ、そなものだろう」と思う尺度の「共通の範囲」がある。ほぼ誰にでも妥当する条件ともいえる。共通の了解のもとに筋立てを展開していくわけで、つまり「普遍性」だ。