これは、映画作品におけるリアリティとかリアリズムのあり方をめぐる問題でもある。
「つじつま」が合わないと思うのは、物語の展開について「因果律」が成り立たない――納得できる説得的な因果関係が描かれていない――と判断するということだ。
映像作品の制作者たちは、テーマを描き出すために、物語における出来事の流れ(連鎖)とか状況設定について独特の組み立て加工を施すことになる。したがって、ストーリー展開は「テーマ描出」という目的の手段でしかない。
だから、とりわけアクションものや政治スリラー作品では、現実の世界ではめったに起こらないような偶然を立て続けに引き起こし、シンクロさせ、収束させ、テーマを訴えるクライマックスや大団円に強引に持ち込んでいく。
つまり、映画作品の舞台というテーブルの上では、振られたサイコロの目は「1」――あるいは「6」――ばかりが100回連続で出続けるのだ。
そんなことはあるはずがない。
では、なぜ、あるはずがない出来事を描くのか。
要するに、何か言いたいこと、テーマを語るためだ。
それゆえ、観る側から言うと、「そんなにうまく運ぶはずがない」ことが立て続けに起き、「いかにも都合のいいように、物語の筋立てが動いていく」ことになる。
ストーリー展開は、テーマを語るのに都合のよいように結びつき、共時化し、符合していく。これを物語ないしプロットの「コインシデンシー」と呼ぶ。
たとえば「ダイハード」。
主人公のジョン・マクレイン(ニュウヨーク市警の警部補)は、キャリアウーマンとしてロスアンジェルスに単身赴任している妻に会うために、はるばる大西洋岸ニュウヨークからロスのナカトミ・ビルディングまでやって来る。
そして、よりによってその夜に、テロリストグループがこのビルを襲撃して乗っ取る。
つまりここでは、殺しても死なない、決してめげない(つまりダイハードな)現役の警察官――というよりもサヴァイバリスト――が来た日にまるで合わせるかのように、テロ集団の襲来が起きたのだ。
そのあと、マクレインはいくども危地に追い込まれるが、運命の偶然の針は、かろうじてマクレインが生き延び、テロリストをしだいに焦燥に追い込むように回り始める。
こうして、物語の筋立ては、マクレインのダイハードな挑戦=戦いが少しずつ優位を獲得していくように展開していく。これが、映画『ダイハード』の物語のコインシデンシーだ。
*「ダイハード die hard 」の意味は、どんなに追い詰められても死なない、めげない、信念や節操を曲げない、ということ。転じて、「死に損ない(しぶといヤツに対する悪口)」とか「とことん夢中になる」という意味もあるらしい。
野鳥観察家のザーヴィッツは、公演の池の畔に設置しておいた自動カメラで、NSAのレイノルズ一味が貯水池の畔で下院議員を殺害するシーンを偶然録画してしまった。危険性を察知したザーヴィッツは、録画データのMCDを持ってNSAエイジェントたちから逃げ回ることになった。
彼が首都のショッピング街に逃げ込むと、偶然、大学の同窓生のクレイトン弁護士に遭遇する。ザーヴィッツはクレイトンが持っていた買い物袋のなかに MCDを隠して逃げ去った。
ザーヴィッツはNSAの工作員によって殺された。工作員がザーヴィッツの部屋を探してもMCDは見つからなかった。彼らは、MCDがクレイトンの手元のあることを知り、クレイトンを追い詰め社会的に破滅させるための謀略をめぐらす。
一方、弁護士クレイトンは、訴訟闘争の手段としての情報を得るために、昔の恋人のレイチェルにときおり映像の盗撮を依頼していたが、レイチェルのために盗撮を実行していたのがブリルだった。
ブリルはもとNSAのアナリストで、NSAの諜報部門が世界と国内の市民社会の監視のための監視衛星システムや盗聴システムを構築するさいに、その開発を手がけたエンジニアだった。
彼は無慈悲な国家装置としてのNSAの企図の恐ろしさに気づいて、スピンアウトし、地下にもぐった男だった。彼はクレイトンの窮状を見かねて手助けするが、そのためにともにNSAの暗殺者たちに追われる羽目に陥った。⇒関連記事
こうして、NSAの1部門の陰謀に関する決定的な証拠情報が、主人公クレイトンの手許に転がり込むことで、彼が陰謀の渦中に巻き込まれるような出来事の連鎖反応が起き続ける。しかも、クレイトンの戦いの武器となり仲間となるブリルとのコネクションが手の届くところにあった。
まさに、この物語の筋立ては、すっかり周到に用意されている。
このように、小説や映画作品のストーリー展開は、たとえばアクション活劇のテーマを表現するために過不足なく――いや、過剰なくらいに――誂えてあるわけだ。現実には、そんなに拍子よく――主人公にとっては危機の連続だから、拍子悪くというべきか――物事は運ばない。
だが、観客は娯楽として「日常性からの脱却」を求めて映画を観るのだから、こういう展開に対して文句を言うことはない。むしろ、活劇の面白味として歓迎する。