◆ペンタゴンと民間軍事会社との癒着◆
パクスアメリカーナの時代にあって、政府組織としての軍部と軍事企業との持ちつ持たれつの関係は、きわめてありふれた、恒常的な事象だった。この事象は、軍の中枢や大統領府=政権中枢も絡む大がかりで系統的なものから、ペンタゴン内部の派閥闘争(路線闘争)と結びついた分派運動めいたものまで、実にさまざまな様相をもつ。
ペンタゴンの強みは、中枢部が、一部の跳ね上がり分子が分派行動しても、それがアメリカの覇権を維持強化する方向にあるものであれば、意図的に見逃すという「大らかさ」にあるともいえる。
たとえば、超保守派=右翼が、ペンタゴンや大統領府の強硬派と結びついて、イランや中央アジア、ラテンアメリカ――ことにニカラグア――で反左翼運動や軍事独裁政権を支援するために、CIAとも絡みながら、非公式のルートを利用してきたことは、周知の事実である。
それは、「右翼跳ね上がり」に寛容な共和党政権時代に多かった。
その意味では、この作品でジョンスン大佐率いる軍事顧問会社が、民間の石油大手企業の権益ために、アフリカで暗躍するのは、リアルな背景があるということになる。
『シューター』の物語では、エティオピアでの大手石油企業の利権を拡大するために、パイプラインの敷設に反対する農村住民を皆殺しするために、ペンタゴンと結びついた民間軍事顧問会社がPKOを偽装して海兵隊の狙撃要員を派遣するというプロットとなっている。
この物語ではPKOは偽装なのだが、本物のPKOでもかなりいかがわしい内容のものがある。国連総会または安保理事会での多数派によるごり押しで、当該地域の住民の平和や生活をまったく無視して展開されるものもある。
◆PKOという名目での営利活動◆
日本人や日本のメディアは、国連のPKOといえば、何でも、その地域の平和を構築するための中立的で公平な活動であるかのように考える場合が多いようだ。だが、PKOは、国連の論争で多数派を握った勢力が推進する営利活動でもある。
というのは、参加する軍隊に大きな名誉と巨額の国連の財政資金が分配されるからだ。その財政資金を使って、国連の多数派または主流派が、自分の都合の良いように国際関係や軍事環境を組み替えるためにPKOを利用するのだ。
まして、多数派にとって都合の良い、どちらか一方の勢力による平和=秩序を構築することが、先進諸国の多国籍企業の経営基盤を地ならしする結果を生むことも多いのだ。
胡散臭さが特に問題化したのは、旧ユーゴスラビア領土へのNATO軍の介入である。このPKO(PMO: peace making operation 平和形成作戦)は、セルビア民族による弱小民族への抑圧や弾圧、そして虐殺に対する国際世論の強い批判を背景にして正当化された。
だが、悲惨な戦闘が終わってから暴露された事実は、おぞましいものだった。
たしかに多数派=セルビア人による圧迫は事実だった。
だが、国際世論の誘導・操作のために、ヨーロッパとアメリカの巨大広告代理企業が大がかりなキャンペインを展開したことで、「多数派」の世論が形成されたのだ。広告会社の企画によって、先進諸国では、セルビア民族の残虐性や横柄さが過剰に強調されたメディア報道が繰り返された。
制裁や抑止のための軍事活動は必要だったとしても、それがNATOによる大規模な空爆や砲撃が必要なほどのものだったのか?
この過剰な攻撃関与を正当化した「世論」の内容を吟味したのか?
というわけで、PKOという名目があれば、何でも中立で公正な平和活動であるかのような外見は「まやかし」である。なかには、相当に怪しくいかがわしいものもある。
日本の自衛隊がPKOで派遣された地域で、日本政府が把握している状況(公式発表)とは相違してかなり危険な環境にある場合も多いのだ。軍ではなく、武装警察隊として大した軍備も権限も与えられずに派遣される自衛隊員は、いかに危険な状態に置かれるのか懸念されるところだ。
この文脈において、日本の首相や防衛大臣たちは、てんで「子ども」であり、アメリカなどからは「子ども扱い」されている。もちろん、当人たちは気づいていない――振りをしているのかもしれないが。
この意味では、作品のプロットはそれなりにリアルな背景状況があってのものである。
映画の制作陣は、以上のように、アメリカ軍部の暗部を動きをPKO活動のいかがわしさへの警鐘と絡めて筋立てして、そういう背景のもとで優秀な狙撃兵がどのようにサヴァイヴァルしていくかをテーマとして描き出したのだろう。