『ゴッドファーザー V』においてJ.フランシス・コッポラとスタッフたちは、舞台劇のシーンの連鎖のようなドラマを主題としながら、背景となった社会状況についても鋭い観察眼を向けている。そして、その社会とはアメリカではなくイタリア社会――シチリアやヴァティカンも含む――だ。この作品では、移民家系出身であるコッポラの故郷、イタリア社会の状況を描いているのだ。
それはまた、『ゴッドファーザー』の2つの前作に引き続いて、コルレオーネ一族とアメリカのマフィアのルーツを探る物語にもなっている。
この物語では、このような権力闘争と陰謀が繰り広げられるイタリアの政治的危機についての懸念が表明されるとともに、危機がやがて何らかの大きな変化につながるのではないかという期待=予感、あるいはイタリア社会への憧憬が描きこまれているのだ。
変化への期待という点では、当時のイタリア社会への鋭い批判もこめられている。
その1つ目は、イタリアで長らく一党支配を続けてきたキリスト教民主党DCがすでに統治能力を喪失しているものの、政権交代の仕組みがなかなかでき上がらない状況への暗黙の批判だ。
DCは中間政党や社会党まで抱き込んで、中道右派の寄り合い政権をつくるが、政治の危機は深まるばかり。
だが、やがて冷戦構造が崩壊すると、共産党PCIの主流派は左翼民主党として自己再編して、政権を獲得していった。実質的に統治能力を失っているDCが何となく牛耳る、古い――「もたれ合い」のようで、しかし家族的な温情も保持する――保守政治は崩壊していった。
とはいえ、微温的な保守政治に代わって、露骨な権勢欲と利権追求を臆面もなく表明するベルルスコーニのドライな保守主義が勃興したのだが。
この点では、コッポラが予感した変化はたしかに訪れた。映画は、変動の予兆を読み取っていた。
そして、批判の向け先の2つ目は、この映画で描かれる国際的金融謀略の物語を可能にするような「金融自由化・規制緩和」の波がイタリアをも呑み込み始めたという状況だ。「自由化」という聞こえの良いスローガンは、サッチャリズム、続いてレイガノミクスによって推進され、やがて西ヨーロッパ全域に広がっていくことになる。
国際的投資をめぐる規制緩和で、コルレオーネのようなアメリカの大金融機関ががイタリア最大の不動産投資会社の株式を取得して資本支配関係を打ち立てることが、少なくとも法制度上は可能になった。
政府(為替管理制度)や中央銀行による国際投資への規制・統制が大幅に緩和されたのだ。先進諸国首脳会議、GATTやIMFの主導下、ヨーロッパ諸国と合衆国との投資保証条約の締結と、それにともなう国内法制度の組み換えによるものだった。
ところが、実際にイタリアで起きたのは、目立つほどのアメリカ資本の進出ではなく、R.カルヴィ率いるアンブロジアーノ銀行グループなどによるバブル経営と国際的な金融犯罪、そしてバブルの破綻だった。このスキャンダルはイタリア政界とヴァティカンの中枢にまでおよんでいた。
しかも、カルヴィ事件の追及のなかで、このスキャンダルに絡んだ主要人物たちの名前が登載された、ある団体の名簿リスト・関連資料が押収・公表された。
その団体とは、〈P−2ロッジ〉というフリーメイスンだったことから、イタリア社会(メディア)ではにわかに「陰謀」「謀略性」が取り沙汰されることになった。
この会員リストには、キリスト教民主党から社会党までの有力政界人、財界人、テレヴィや新聞などのメディアの大物、ヴァティカンおよびイタリアの上級聖職者などが名を連ねていた。
だが、そこに名を連ねた面々は、いわば底の浅い成り上がり者たち、胡散臭い食わせ物ばかりで、品位や家系・家門を重んずるといわれるフリーメイスンにしては、じつに軽かった。それで、この団体の存在の信憑性にはいくつかの疑問符がつけられたのも、事実だった。
実際には存在したのだが、組織運営や儀式などがあまりにも戯画的で拙劣だった。ところが、そんな胡散臭い団体に政財界の有力者たちが名を連ねていたのだ。
団体の主催者と目される人物は、事件のさなか闇に消えたままで、この方向での捜索は行き詰まった。
⇒金融スキャンダルと暴力の実態についての参考記事
映画は、スキャンダルの中身をフィクションに入れ換えたが、謀略の構図がイタリア政界と教皇庁の中枢にまでおよんでいることを鋭く描いている。
そもそも、イタリアとヨーロッパの金融システムの――金融自由化・規制緩和という――構造変化は、アメリカの主導で始まったものだった。世界の主要諸国・地域の「カジノ金融(ギャンブル)資本主義」への移行が鳴り物入りで進められたというわけだ。
そして、私の見るところ、このときすでにアメリカでは、最終的にリーマンショックにたる深刻な金融危機に向かう道への転轍がおこなわれていたようだ。