権力犯罪や経済犯罪を描く《政治スリラー》というような映画ジャンルでは、主題は、登場人物たちが陰謀=謀略に巻き込まれて苦悩する姿、あるいは陰謀と闘う姿勢をつうじて語られる。
その場合「謀略の構図」そのものがテーマとなることもある。
今回は、映像に描かれる《陰謀》によって、何をどのように表現しようとしているのかを考える。
英語で「陰謀」を意味する用語には、 plot / intrigue /conspiracy などがある。ここで扱う「陰謀」に一番近いのは、
conspiracy だ。「共同のはかりごと(共同謀議)」という意味合いで、〈 con + spire 〉という2つの部品から成り立っている言葉だ。
コンは「共同の」とか「共通の」とか「結合した」という意味の接頭辞で、スパイアは「精神活動」とか「思索」とか「観念」「構想」あるいは「意向」を意味する。
要するに共同の策謀ということになる。
これまで取り上げてきた映画作品の多くに、陰謀ないし謀略が登場する。そこではもっぱら権力闘争や権力をめぐる犯罪が扱われている。映画が描き出そうとするテーマは、政治的事件、利害紛争、利権争奪のなかでの人間像、群像などということになろうか。
このような場合、物語は、謀略を仕かける側とそれを受ける側、巻き込まれる側の2つの敵対的な陣営の闘争を描くことになる。それが「正義対邪悪」という構図であっても、闘いのなかで、互いに相手を出し抜き陥れようと知恵を絞り、手立てを打つ。
とはいえ、権力闘争や権力者の営為を《陰謀》として描くのは、事態の単純化あるいは一面的な誇張である。
人間たちのある種の営為を《陰謀・謀略》としてシンボル化する映像手法は、状況を「わかりやすく」して、観客に(あるいは短絡的に)臨場感や切迫感を抱かせる効果をねらっているのかもしれない。
ところが、権力闘争や権力者の営為はえてして自己肥大化・増殖して、本人たちが意図しなかったほどに巨大な広がりの謀略の構図にまで発展してしまうことも多い。
この場合、絡み合う要素は膨大になり、複雑に錯綜して作用して、波及効果もまた複合的で、往々にして動きの行き着く先が読めないものだ。
つまり、謀略の首謀者たちにとっては、自分たちの手に負えない事態が見る間に広がっていき、全体としての「戦場の状況」が把握しきれないものになる。当然ながら、すべての結果については手当てができない。そこから破綻や謀略の発覚・暴露につながってしまうこともある。
そういう謀略事件の場合、ゲイム(闘争)への参加者は、いずれの側でも生き延びようとか有利に立ち回ろうとして、自分の裁量で勝手に利益を追い求めたり、怯えたり悩んだりしながら、それぞれに好き勝手な戦術や術策を講ずる。そして、誰もが相手の手の内を読みきれないという事態にはまりこむ。
というわけで、現実の世界では、多数の目論見や欲望、企図、策謀がぶつかり合い相殺し合って、事態は、有力なゲイム参加者の思い通りにはならない。陰謀は、権力者や支配者のものであっても、社会全体の万人の意図のうちのひとつでしかなくなる。
全体のなかの些細な要因でしかなくなる。というよりも、状況をコントロールしているというよりも、状況によって動かされ、構造制約されるものとなる。
かくして、陰謀というものは、多数者が競争しあい出し抜きあう世界では、長期的、大局的に見れば、思い通りの成果をあげずに終わる。
だが、映画では《陰謀》は有効な演出材料であり続ける。
これまでに扱った作品のなかから、まずはじめに『ゴッドファーザー V』を例にとって分析してみよう。
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