数学研究を諦めてニュウヨークに行こうとしたキャサリンだったが、あのノートの証明が彼女自身の業績だと評価する――つまりは才能を認める――人物が現れたことで、やはり自らの人生の選択を真剣に考えるべきときが来たと思った。
というのも、心の底では数学研究を続けたいと思っているからだ。要するに、数学研究を本格的に再開しようと決心する勇気が湧くのかどうか、それが問題なのだ。
姉の意見にしたがってニュウヨークに移住することも、家族の絆によるものだ。だが、父から受け継いだ才能・資質を生かして、これまた父から受け継いだ数論の証明という研究課題に取り組むのも、家族の絆の確認である。それは、アイデンティティの確認でもある。
自分の人生の目標を定めて追究するには、リスクを負う覚悟と勇気が要る。とりわけ数学研究は孤独な仕事だ。だから、怖い。
キャサリンは、姉の車のなかで悩んだ。
結局、キャサリンが出した答えは、シカゴに残って数学研究を続けるというものだった。
心配する姉を振り切って、キャサリンは車から降りた。
それからしばらくして……
シカゴ大学のキャンパスでのこと。
キャサリンは木立に囲まれた芝生にあるベンチでノートに書き込みをしていた。
あのノートは手元からなくなってしまった――シカゴ大学が管理しているのだろう。だが、もう一度、あの証明を最初からやり直してみようと決心したのだ。
証明全体の方法の組み立てと筋道は覚えている。ただし、細部については心許ない点もいくつかある。細部の記憶が曖昧ということもあるのだが、それよりも、破綻なく論証がおこなわれているか、検証に耐えうるかについて疑問があるのだ。
ほかの学術分野と異なって、数学の証明ではたった一つでも例外があってはならない。ただ一つの例外を反証として提示されたなら、証明の論理には破綻があるということになるのだ。
だから、証明の細部については、もう一度点検して補強すべき部分もありそうだ。
とはいえ、今度最初から論証を進めて完成させれば、キャサリン自信の手による証明=実績ということになる。記憶が曖昧なところや論証の穴になりそうな点については、専門の研究書を呼んで学び直し、より完全な論理構造・推論過程にしなければならない。そして、証明の筋道が立ったなら論文に仕上げようと決めている。
そんなところに、ハロルドが通りかかった。彼は、キャサリンが数学研究の目標を諦めてニュウヨークに引っ越していってしまったと思っていた。同志(研究仲間)と恋人を同時に失った気分だった。
堕ち込んだ気分にいたところでキャサリンを見つけた。キャサリンはキャンパスに戻って、何やら研究に取り組んでいる様子だ。
で、声をかけた。
キャサリンは、最初から証明をやり直して論文として発表するつもりで、今研究に取り組んでいると答えた。
「それは、すばらしい考えだ。応援するよ」
というわけで、キャサリンは自分の人生の目標を取り戻す試みに挑み、そして人生のパートナーとなりそうなハロルドとの関係のやり直しにも挑戦することになりそうだ。
ハロルドは人間として素晴らしい素質を備えている。それは、自分の限界をわきまえていて、キャサリンが自分よりもすぐれた才能を持っていることを認めているのだ。
人並みすぐれた秀才であるハロルドは自らについて、数学界の到達点を把握し、大学で優秀な数学者を育成する指導者にはなれるだろうが、何か天才的な業績を達成することはなさそうだと見ていた。だが、いや、だから、自分よりも才能を持つキャサリンが数学界の地平を押し広げる証明を達成するのを応援しようとしているのだ。
謙虚にそれができるほどに、ハロルドは数学を教える――自分を越えていく後輩たちを育成する――指導者として秀でているということだ。
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