さて、歌劇場では。
コルレオーネ・ファミリーを出し抜いたと信じたドン・アルトベロ。「マイケルは今夜死ぬ。今度は俺が頂点を極める」とばかりに、陰謀を楽しんでるかかに見えます。
オペラを見ながら、大好物の甘いお菓子をほおばります。
ところが、オペラがクライマックスにさしかかる直前、アルトベロの心臓は停止しました。
一方、マイケルはといえば、なにか緊急の知らせにロイヤルボクスを退出したため、狙撃を逃れることができました。しかも、息子のデビュー・オペラは大成功のうちに終演。
しかし、劇場のエントランス階段を降りるそのとき、暗殺者の放った銃弾がマイケルをそれて、愛娘のメアリーの胸を撃ち抜きました。
メアリーの無残な死に、マイケルは狂ったように悲嘆します。
長兄を惨殺され、次兄をわが手で葬り、しかもついに娘まで殺されてしまったのです。
修羅の道を奔り続け、引退してようやく平穏を手に入れたかに見えたこのときに、マイケルは家族の最も大事な絆を、自らがこれまで馴染んできた暴力によって失ってしまいました。
それから数年後、気力が萎えきったマイケルは、まぶしい陽射しのなかで崩れ落ちるように死んでいきました。
巻頭付録のインタヴューで、コッポラは、「脚本のマリオ・プーゾと相談して、映画の結末を作り直した」と語ります。
もともとはマイケルが射殺されるシーンだったけれども、兄殺しの罪業を負ったマイケルにふさわしい残酷で苦痛に満ちた終わり方にしなければならないと考えたといいます。
シェイクスピアの「リア王」のように、家族の愛や絆を断ち切られ、苦悩しながら孤独のうちに死を迎えるようにしたかった、と。
こうして結局、マイケルもまた権力を追い求めるうちに、自ら権力を動かす巨大なメカニズムのマリオネットになってしまい、やがて孤独と苦悩にまみれて死ぬわけです。
この映画は、「ネオ・ネオレアリスモ」の手法で、権力犯罪とマフィアの抗争を淡々と描いていきます。
下敷きになったのは、すでに書いたようにカルヴィ事件、バティカン・スキャンダルで、実際に起きた犯罪です。イタリア政財界、教皇庁、マフィア、P2ロッジなどが絡んだ血なまぐさい事件です。
この作品は、物語の組み立て、個々の場面、シークェンスのできばえは相当高いといえます。
しかし、1979年から83年にかけてのイタリアとヨーロッパの動きを知らなければ、物語の全体や構図、人物の役割がなかなか見えてきません。
まるで深い霧の向こうの風景のように。
イタリア人やヨーロッパの政財界通や金融界通には、わくわくするほど面白いこの映画も、日本ではあまり話題になりませんでした。
しかし、もしだれにもわかるように描いたら、ヴァティカンやイタリア、ヨーロッパでは不評を買ったかもしれませんし、芸術性が損なわれてしまったかもしれません。
わからないから何度も観る。そして、そのたびになにかを発見する。
それでいいのかもしれません。しかし、日本人向きではないでしょう。
ともあれ、この映画と《神の銀行家たち》は一対で、20世紀末に近い時期の歴史を描いたすぐれた芸術作品になるのではないでしょうか。
この2つを見比べれば、カルヴィ事件の構図が、そしてそれとともに、マフィアという歴史的な社会現象がなんであるかが見えてくるという意味で。
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