西側企業社会でも、企業規模・組織の拡大にともなって、企業単位では計画制度が発展した。資金や資源の効果的配分や調整、長期・中期目標の策定は、成長の不可欠な手段になった。
それでも、西側経済で大規模化し組織化が進んた企業が、市場のニーズや技術変化にできるだけ即応して企業経営活動を制御しようとして開発した手法が、「マーケティング」であった。マーケティングのテクノロジーや方法論それ自体は、企業利潤の最適化をめざす、きわめて非政治的なものだった。
けれども、巨大化した企業組織の内部では、大規模な経営官僚装置が形成され、派閥や企業内政治闘争、駆け引きが展開する。
しかし、それでも企業は標的市場に取り込んだ人びとや企業(顧客)のニーズのセグメンテイションやセグメント誘導などによって、生産とニーズを接近させるフィードバック回路を構築した。このフィードバック手法には、企業の投資計画や利益計画、ニーズを技術開発過程に取り込むメカニズムを開拓した。
そしてさらに、(自動車や電気製品、住宅など)耐久消費財において、ニーズを誘導してローンやクレディットによって顧客に購買契約を取り結ばせ(契約の先取り)、購入代金の支払いを将来に繰り延べてしまう信用による販売形態の開発は、まさに諸費者ニーズの誘導・制御の仕組みだった。
つまり、消費者未来の収入所得の一定部分をローンやクレディット返済に向けて資本が支配してしまう方式だ。購買契約(ローン・消費貸借契約)を促すことで消費=使用と代金支払いを将来に回してしまう。企業への代金決済は、仲介する金融クレディット会社が契約直後におこない、そのあとで金融会社の返済システムが、企業に代わって顧客の支払い過程(所得配分)を管理するのだ。
これによって、価格の大きな商品の支払い決済システムの無政府性はかなり制御できる。ただし、深刻な不況が来れば、金融循環に絡みついた支払い決済システムが麻痺することは、目に見えている。
それにしても、これらは生産と消費のバランスを外見上保ちながら、企業の再生産循環の過程をできるだけ波乱のないものに調整する仕組みではある。マーケティングと信用金融システムが。
つまり、計画は企業レヴェル(マイクロエコノミー)で緻密化され、広範な社会的規模(マクロエコノミー)での生産と消費ニーズとの調整は、個別企業間のマーケティング競争と信用=金融が媒介するようになった。
だが、これらは、ソ連に完全に欠如していた。
政治的に決定された計画目標は、現実の消費・生産ニーズからどんどん乖離していき、その乖離を調整補完する仕組みはなかった。これは結果的に、消費ニーズの抑圧、つまり、民衆のニーズからかけ離れた製品の生産と、国営企業の生産物の強制的に民衆に分配=配給するシステムをもたらした。市場での諸品交換の代わりに、国家が配給を強制して消費財を分配するのだ。消費の抑圧とは、消費ニーズの担い手=労働者・市民の要求の表明の抑圧という構図になった。
だが外観上、国営企業の資本蓄積は、民衆の消費ニーズを押しのけて、強行的に進んでいく。だが、企業に蓄積された資本=生産財は、そのクオリティは、世界市場の標準からすると、およそ競争に堪えないもの、国際的取引では需要が見込めないシロモノを生み出すことしかできなかった。
ソ連国家の強制力が通じない経済的競争の世界では、ほとんど価値のない生産力でしかなかった。
国内の不満や不信は、レジームによって封じ込めることができた。だが、世界市場競争では、この封じ込めはまったく通用しない。
だから、長らく、ソ連は東欧経済圏(コメコン)内部での国際流通・分配を組織化しようと奮闘したが、失敗した。
ニーズから乖離した「国民経済」をどれだけ寄せ集めてみても、事態はひどくなるだけだった。西側先進諸国が主導する世界市場競争から取り残される一方だった。
結局、60年代半ばになって、ソ連・東欧は個別国家単位で世界市場競争に乗り出すしかなかった。その結果は、ドイツを中心とする金融大国への金融的・技術的従属だった。「多重債務国家」のできあがりだった。
皮肉なことに、中央計画経済を採用したソ連では生産の無政府性はむしろひどくなったが、西側競争社会では企業が経営統制のための戦略としてマーケティングを導入したことで、生産の無政府性は広範に調整・緩和されることになった。
ただし、ローンやクレディットによって決済過程を複雑に金融循環に組み込み絡ませたことで、生産の無政府性は販売市場ではなく、むしろ金融市場で爆発的に発生するようになった。そして、金融循環の影響力がおそろしく膨張したため、金融危機が生産と消費のシステムを押しつぶす危険が増大した。日本のバブル崩壊後の危機やリーマン・ショックを見よ。