さて、話を戻そう。
地中海貿易で覇権を握っていたヴェネツィアの絶頂(15〜16世紀)は、それを掘り崩して下り坂を用意する文脈のなかに、じつはすでに取り込まれていた。
歴史は皮肉なものだ。もっとも、絶頂という表現は、「上りつめたその直後には下降線が待っている」という状況の、裏返しの表現にすぎないのだが。
さて、地中海貿易が活発化した13世紀に、モンゴル族は、ユーラシア諸部族の軍事的盟主となって東アジアから中央アジアにまたがる「大帝国」を築いた。
騎馬団を組織して広域・遠距離の移動遠征に長けた彼らは、ユーラシア大交易の軍事的・政治的環境を整え、欧亜にまたがる伝馬宿駅制度を組織した。こうして、東アジアや南アジアから中アジア、黒海方面へおよぶ遍歴貿易ルートを構築した。
そのため、アジアから香料や陶磁器、宝玉などの奢侈品を運んで地中海に向かう交易路の主流は、レヴァント方面への道から黒海・アナトリア方面への道に移動した。
この動きに乗って、ジェノヴァの商人たちが台頭し、黒海方面に貿易拠点を築いて、ヴェネツィアの優位を突き崩しにかかった。そして、高価な奢侈品貿易を土台に、ヨーロッパ中に貿易・金融為替ネットワークを組織していった。
ところが14世紀末、モンゴル帝国とその末裔のレジームが分裂解体していくと、宿駅制度も崩壊した。すると、中央アジア方面の遍歴貿易の安全保障が後退して、欧亜交易の主要ルートは、ふたたびレヴァント、キュプロス方面に戻った。
そこはヴェネツィアが優位を確保する地方だったから、ヴェネツィアが、当時最も収益性の高い貿易経路を掌握することになった。とはいえ、ジェーノヴァやフィレンツェ商人たちも急追していた。
しかし、15世紀になるとオスマントゥルコが地中海東部に勢力を拡大してきた。北アフリカ方面にもトゥルコの権力がおよぶようになった。
そうなると、ヴェネツィアは、交易の拠点となる地中海の島々の多くをトゥルコの圧迫から軍事的に防衛する必要に迫られた。守るべき戦線の拡大は、貿易のリスクとコストの負担を一挙に押し上げ、欧亜貿易の実質的な収益性は低落していった。
1453年には、ついにコンスタンティノポリスがトゥルコの手に落ちてしまった。有力な交易市場=拠点が失われた。
しかも、イベリアでは12世紀からレコンキスタが進展して、カスティーリャ、アラゴン=カタルーニャ、ポルトゥガルなどのキリスト教諸王朝が権力を拡張してきた。これらの王国の商人や貴族たちは、地中海性部や北アフリカ、大西洋方面に進出した。
なかでも、アラゴン=カタルーニャ王国は、サルデーニャやマジョルカ、ミノルカなどの島嶼を支配するようになり、バルセローナの商人団体が地中海東部で優位を獲得した。
その結果、イベリア方面にさしたる通商・軍事拠点をもたないヴェネツィアは、この方面での影響力が低下した。
ところが、ジェーノヴァやフィレンツェの商人たちは、これらのイベリアの王権・宮廷財政に接近(王室金融を展開)して、貿易および金融上の特権を獲得していった。地中海東部での足場の喪失に対応する生き残り作戦だった。
おりしもまた、ネーデルラントを中心とする北西ヨーロッパの商工業が目覚しく成長発達して、その勢いはイタリアをしのぐようになってきた。
これに対応して北イタリア諸都市の商人たちも、フランスやドイツの内陸交易路をつうじて、あるいはイベリアの諸都市や海岸沿いの大西洋岸航路をつうじて、ネーデルラントとの通商路を開拓していった。
こうして、ヨーロッパの経済の重心は、地中海から北西ヨーロッパへと大きく傾き始めた。