揺れ動くイタリア 目次
疫病の地政学
ペスト襲来
環境危機
ミラーノの台頭
ヴィスコンティ家
国家組織
歴史観を見直す
地中海貿易の構造変動
地中海東部の変動
地中海西部の変動
ヴェネツィアの黄昏
地中海貿易の後退
ヨーロッパの軍事革命
戦争の形態の転換
海洋権力の転換

ヴェネツィアの黄昏

  16世紀になると、ヴェネツィアの地中海(ことに東部)での通商権益は目立って縮退し始めた。
  これに対応するように、ヴェネツィア政庁と商人グループは、権力の基盤を、海洋における貿易拠点の支配(海洋帝国)から、大陸領土( terra ferma )の拡張へと決定的に移していった。
  ところで、この転換はすでに半世紀前から始まっていた。
  というのも、15世紀半ばには、ドイツとギリシアの2つの帝国レジームが没落してしまったからだ。
  ドイツ=中央ヨーロッパの神聖ローマ皇帝の権力とバルカン半島のギリシア皇帝の権力はすっかり衰微し、北イタリアに対する圧迫がなくなった。その分、勢力争いを牽制し勢力均衡を支えていた側圧が失われたことになる。
  イタリアの諸都市国家どうしの権力闘争および領土紛争がいよいよ激しくなった。この動きのなかで、ヴェネツィアもアグレッシヴに内陸領土の争奪と拡張競争に乗り出したからということもあった。

  ヴェネツィアのライヴァルはなかでも内陸都市の雄=ミラーノで、ロンバルディーアをめぐって熾烈に争った。ミラーノは、ヴェネツィアに対抗して内陸部への勢力拡張を進めたからだ。
  そして、1433年にはヴェネツィアはベルガモとブレッシャ、41年にはラヴェンナを征服、その後アッダ河近辺にまで支配地を拡大した。
  こうして、アルプスにまでおよぶ地方にまで支配地を膨張させた結果、富裕な商人貴族たちの投資スタイルがすっかり変化してしまった。
  つまり、蓄積した富を土地の獲得と農場経営――開墾、土地改良、灌漑設備の整備、所領の集積――に振り向けるようになったのだ。彼らは土地貴族に変貌していく。
  ヴェネツィア人は、もともとハイリスクの投機的な貿易・金融よりも堅実な経営を好んできた。政庁が個々の商人家門の突出を抑制して、市内の多数の商人による集団的な共同事業をしてきた。
  そういう心性や行動スタイルもあってか、彼らはリスク=コストが飛躍的に高まった海洋貿易から、土地支配・土地経営に人材や資金、資源の主要な投入先を転換していったのだ。

  土地経営=農業は、ひとたび――土地開墾・圃場整備・土壌改良、水路や灌漑施設など――基本的なインフラストラクチャーが形成されれば、そのあとは持続的に農場経営や地代収取による所領収益が見込める有望な投資対象となった。
  それはまた、危機にさいして海上貿易をめぐる覇権を自ら手放す選択でもあった。それが生き残りの方向と見定めたのかもしれない。
  市内には古くから技術の高い工房マニュファクチャー――金属加工、宝飾、衣料など――があったので、その製造技術を洗練させていった。そのほか、域内では音楽や絵画、彫刻などの芸術が洗練され、ヨーロッパじゅうから注目を集めるようになっていった。
  そのせいで、通商覇権の喪失後にむしろヴェネツィア市街(見た目)の華美さや荘厳さは増幅していくことになる。

地中海貿易の後退

  さて、オスマントゥルコはその後も勢力を拡張して、15世紀末までには、黒海とエーゲ海からヴェネツィア艦隊を駆逐し、バルカン半島のほぼ全域とクリミア方面を直接ないし間接の支配下に組み込んだ。
  オスマンの皇帝は、イタリア諸都市の地中海東部での活動拠点を征圧して、その交易には思い通りの事業税や通航税、関税をかけることになった。
  これによって壊滅的な打撃を受けたのが、ジェーノヴァ人が独占していたアナトリア方面からの明礬貿易だった。繊維品製造に不可欠のこの商品の独占取引きによって、ジェーノヴァ商人は巨額の利潤を得ていた。

  香辛料や絹、木綿、陶磁器、宝玉など、イタリア諸都市の商人たちが掌握していたアジア特産品の調達経路は、大きな制約と障碍を負わされるようになった。
  それに追い討ちをかけたのは、ポルトゥガル船団によるアフリカ南端周りのインド航路の発見と開拓だった。イタリア人のアジア産品の独占的貿易ルートは、どんどん失われていった。
  ジェーノヴァ人やフィレンツェ人たちが、商業活動の中心を実物商品貿易から金融業に切り換えていったのは、おそらくこうした地政学的環境の変動が背景にあったに違いない。

  ヴェネツィアはそれまでさほどの内陸領土をもたず、バルカン半島沿岸部やアドリア海、エーゲ海などの諸島に数多くの通商・軍事拠点を確保することで地中海貿易での優位を確保してきた。いわば海洋上に散在する多数の小さな点を結んだネットワーク状の帝国を築いてきた。
  ところが、ヨーロッパの政治的・軍事的環境の変化のなかで、そのようなレジームでは政治的=軍事的単位として自立性を保てなくなったようだ。内陸に支配地を拡大しようとする動きは、まさにこのような状況への対応であったと見られる。
  それがヴェネツィアの生き残りを賭けた「選択と集中」の方法だった。しかし、それでは貿易での優位を保てなくなるのは必定だった。
  ヴェネツィアの内陸への後退は、とりわけ地中海東部でのヨーロッパ人の通商的・軍事的優位の一時的中断をもたらした。

  こののち、ヨーロッパ人が中東・東方貿易に進出するのは、軍事革命を達成し、ポルトゥガルがアフリカ南端を回り込む航路を発見しインド洋への貿易路の開拓を始め、これにネーデルラントやブリテンが追随するときだった。

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