北イタリアの諸都市国家が政治体としてのその限界に直面するようなったのは、ヨーロッパの軍事的環境の構造転換が始まったからだ。
端的には、大砲と銃の発明・開発と戦争への応用だった。これによって、軍事組織と戦争の形態がすっかり変ってしまったのだ。
この転換の先端を走っていたのもイタリアだった。
西ヨーロッパでは14世紀をつうじて、カタパルトで焼夷弾を発射する方法から、火薬の爆発力で砲丸を撃ち出す大砲と火縄銃が試行錯誤的に開発された。
そして15世紀には、緒戦で火砲(主に火縄銃)によって敵の戦列を崩してから槍歩兵、次いで騎兵隊を突入させる戦術が普及し、やがてはさらに城砦攻撃に大砲を用いる戦術が開発された(攻城砲戦術)。
大砲の命中精度はきわめて低かったが、軍や兵員に対する心理的な威嚇効果は抜群だった。ごくたまにしか命中しなくても、爆音と破壊力は飛び抜けていたから。
火砲(それを扱う歩兵の訓練をも含めて)はきわめて金のかかる兵器で、それを用いる軍事単位=政治体の財政的負担を飛躍的に増大させた。
さらに、その威力に対抗して城塞の堅固さや規模の拡大をも迫った(築城構築法の転換)。それも巨額の費用を要した。
そればかりか、火砲は弩(クロスボウ:いしゆみ)よりもはるかに大きな射程と軍の機動展開空間をもたらした。
そのため、防御や攻撃の前線を政治体の枢要部や中心都市からできるかぎり遠い場所に設定しなければならなくなった。軍事的に支配する空間を広げるしかない。
つまりは、北イタリアの小さな都市国家のような狭い領土では、およそ有効な防衛を構築できなくしてしまった。
海運や艦隊=海洋権力、そして通商での優位は、相変わらずヨーロッパにおける諸国家の覇権争奪争いにおいて不可欠かつ最重要な条件だった。しかし、いまやこれに国家の領土の大きさと戦争に資源や財政を動員する機構、すなわち財政的な基盤を備えた軍事的防衛=攻撃能力が加わった。
しかも、これまでのように名目上の支配地に広さではなく、実効的に統治し課税・徴税権力をおよぼす力能が問われようになったのだ。
そのような競争から、やがて広大な王国版図と植民地帝国を持つエスパーニャ王権が脱落し、フランス王国も何度も分裂の危機に陥り後退する。
最後まで勝ち残ったのは、それらよりもはるかに小さな領土しか持たないネーデルラント連邦とイングランド王国だった。結局、政治的=軍事的単位としての統合性・凝集性の高さが物を言ったのだ。
しかし、そのような結果が出るのは17世紀末から18世紀にかけての時代のことで、ここで対象としている15世紀末から16世紀においては、イタリアの諸都市国家の前に圧倒的な力を誇示しながら出現した巨人は、フランス王権とエスパーニャ王権だった。