そんなある日、ハリーは考え事をしながら、セーヌ沿いの散歩道を歩いていた。河岸(左岸)の歩道沿いのカフェテラスでは、マリエケが2人の気障ったらしい教授と談話していた。通り過ぎようとするハリーを見つけたマリエケは、声をかけて無理やりテイブルに呼んだ。彼女は同席の2人にハリーを紹介した。レンブラントに詳しい絵画史の教授として。
レンブラントの名を聞いた2人は、その巨匠をこき下ろし始めた。なかでも気障の度合いが高い方の教授は、17世紀ネーデルラント絵画鑑定の専門家としてヨーロッパ中に名を売っていた。この高名な教授は、レンブラントの作風をきわめて狭い範囲に限定し、真贋鑑定では秀逸ないくつもの作品に「贋作」(弟子の作品とか、少し後代の模倣として)のレッテルを献上していた。
ネーデルラントの商人階級に好まれたレンブラントよりも、富裕な貴族層に好まれた絵画が好きな教授は、できるだけレンブラントの残存業績を低く見積もりたいのかもしれない。ケチをつけるだけつけたいというわけだ。というのも、レンブラントらネーデルラント学派は、それまでは絵画に描かれる肖像画に登場することはなかった市民階級(とはいえ富裕な商人階級なのだが)を題材や対象にしたからだ。つまり、対象やテーマが革命的だったのだ。
レンブラントのこき下ろしと鼻持ちならない貴族趣味にカチンときたハリーは、あんたがたにレンブラントの何がわかるんだ、と問い詰め、 「今世紀の終わりまでには、あんたたちのおかげで「真作」は1つもなくなってしまうだろう。作品はなくなり、解説と理屈ばかりが残る。ありがたいことだ」と吐き捨てた。
私もドノヴァンの意見に賛成だ。画商や美術商ではないから、別にレンブラントとかフェルメールとかルーベンスという名前がありがたいのではない。彼らの作品だとされている絵画そのもの、つまりテーマや構図や技法など、私に知覚理解できるすべてが好ましいし、すばらしいと思うからだ。
ところが、贋作商売を成り立たせているのは、絵画取引きにコマーシャリズムや金融投機的要素が絡みついているからだ。絵画は、投資の対象となり、金儲けの手段となっているのだ。
贋作ならずとも、類似した作品を高く売り込むために巨匠の作品と評価するのも、細かな作風や技法の違いをことさら言い立てて「真作」ではないとして排除するのも、業界の権威システムないし共同主観のせいなのだ。
画商や業界筋から奉られ、場合によっては多額の手数料や便益を供与されている鑑定家や専門の教授・学者先生たちの仕事なのだ。
彼らは余計な知識や薀蓄を傾けるのはよいが、さらにあれこれのレッテル張りをして、純粋に作品を楽しみ、そこから学ぼうとする庶民の姿勢を動揺させるのは、困りものだ。
もとより、鑑定家が本当の美術愛好家で鑑識眼に富んでいるなら、それに越したことはない。
要は、愛好家、鑑賞者の見識と経験の厚みが物を言うのだ。ということは、愛好家や鑑賞者自身が、やたら絵画を自分の所有物にしたり資産運用の対象と見たりするるような「欲得ずく」の立場を完全に離れる必要があるということだ。